KOA-GIKEN Story 1985-2012
コーア技研物語
記憶にたよっている部分もあるので間違いなどありましたら管理人までメールでお知らせください。
1985年夏 | 山形市厚生年金休暇センターの駐車場でJA7AQZ,JA7ISU,JI1FGXなど数名のHAMが出会いアマチュア無線の電波を使ったデータ通信の話題に花が咲く。 |
1985年秋 | 山形市のJA7ISU宅,米沢市のJI1FGX宅で431.12MHzの電波を使用した無線BBSが動きはじめる。使用機材,富士通FM-8 FM-7 自作300bps無線モデム BBSプログラムはF-BASICで開発。(約1000ステップ)別に,NEC PC8001と内蔵カセットインターフェースを300bpsモデムとして使う,無線クライアントプログラムをN-BASICとZ80マシンコードで開発。 サービスエリアは村山盆地,置賜盆地の南北70kmくらいのエリアで十数局が無線BBSを利用。 |
1985年秋 | 上記のシステムを米沢市で開催される「HAMフェスティバル」で展示することになったが,「発表団体名」を付けてくれと言われ,南陽市赤湯の飲み屋でJA7ISU,JI1FGX,JH7QHYなど数名が「激論」するもなかなか決定せず。結局,飲み屋3軒を看板で追い出された挙句面倒になって「アマチュア無線技術研究会」という至極平凡な名称になったが,つまらないので頭に「高度」をくっつけて,「高度アマチュア無線技術研究会」となった。 これが「コーア技研」の名の起こりである。 なお,コーア技研は他の無線クラブと異なり,会費はもちろん会長も会則も存在しない。技術(宴会術含む)でなにか面白い事をやってみたいと考えた時,それに賛同して集まればコーアメンバーということになる。会則や入会・退会など一切の拘束を排し,「やってみよう」「面白そうだ」という賛同できる思想のみで極めて緩やかにつながっている集団である。これは23年経過した現在も変わらない。 |
1985年末 | 上山市の某保養所で,無線BBS−SYSOP,ユーザ10名ほどが集まり,コーア技研忘年会を開催する。連絡はもちろん無線BBS(当時はMAIL-BOXと言っていた)で行う。コンピュータを宴会連絡道具とする「高濃度アルコール摂取技能研究会」の精神はここに始まる。 |
1986年 | アメリカのTAPRが開発した,アマチュア無線用パケット通信プロトコルA.X.25が世界的に普及する。日本でも輸入品のTNC(ターミナル・ノード・コントローラ)が入手できるようになってきた。 安価なTNC−2も発表され,プリント基板やCPU,メモリ,モデムなどのLSIや部品を調達しTNCを自作することもはやり始め,米沢市でコーア技研TNC製作講習会を開いたところ,山形県内で数十局のパケット通信局が運用を始めた。 5月に蔵王山刈田岳駐車場からパケットの電波を送信した時,応答は皆無だったが,7月に吾妻山の白布峠からパケット電波を送信したところ,関東方面と多数通信でき,また初めてデジピート(パケット中継)機能を使った遠距離通信の可能性を実感した。実際,苦労してパソコン(PC9801VM)や2KW発電機,無線機,アンテナを山の上まで運んできて,いざ自分が遠方と通信しようとしたら,すでに下界のパケット局が自分を山上中継器として使って,どんどん通信をやっているのを目の当たりにし,通信方法の変革が確実に起こることを予感させた。 この年TNCのデジピート機能を使って,山形県鶴岡市から横浜まで7段中継でつなぐ431.06MHz南東北−関東パケットネットワーク無線回線が確立する。 |
1986年秋 | 福島市飯坂温泉で「第1回東日本パケッティアーズミーティング」を開催する。東北各地のパケット通信愛好家数十人が参加したほか,関東からもJR1VMX,JF1LZQ,JJ1BDXなどPRUGのメンバー数人が参加し,後にコーア技研に大きな影響をあたえた。 |
1986年秋 | コーア技研米沢でJA7HLV,JI1FGXらがデジピータ専用機を製作。山形駅近くのビル屋上に設置してJR7YDAのコールで約半年間運用。 |
1986年 | この年に,JARL(日本アマチュア無線連盟)のアマチュア通信衛星JAS-1(FO-12)がH-1ロケットで打ち上げられ軌道に乗る。FO-12はパケット通信機能を持ち,空飛ぶ無線BBSとなる。 |
1987年 | 日本全国でアマチュア無線のパケット通信が爆発的に普及。無線BBS同士で記事やメールの自動転送を行うFWD-NETも始まる。 |
1987年 | コーア技研米沢で1200MHzFMレピータを製作。JP7YCOの免許を受け,当時は山形県初?の1.2GHzレピータでしかも自作という快挙だった。 |
1987年 | YDCGと共同で,蔵王ロープウェィ山頂駅(標高1600m)からデジピータJR7YDA/JR7YIUを試験的に約2ヶ月運用。 |
1987年秋 | 第2回東日本パケッティアーズミーティング(福島市飯坂温泉)開催 PRUGメンバーから「インターネット・TCP/IP」なる言葉を初めて聞く。当時は「なんじゃい?そりゃ?」てな感じでした。(日本ではまだUUCPでのニュース・メール転送くらいでしたけど) |
1988年 | 第3回東日本パケッティアーズミーティング(山形市大野目温泉)開催 その前段として昼間に第1回コーア技研芋煮会を馬見ヶ崎河原にて開催。これがコーア技研芋煮会の始まり。「東パケ」の山形市開催を決めた時,当時PRUG会長のJR1VMXが,「山形の芋煮というものを食ってみたい」とぼそっと漏らしたのが事の発端であった。 当日は大雨で,河原にはいつもの芋煮の人影は皆無。そのなかで青シートで仮設テントを急造し,その下に20人くらいの男がひっつき合って酒を飲み,芋を食うという異様な光景が繰り広げられた。(^^;; なお,それ以降コーアの芋煮で本格的雨になったことは皆無であるため,JR1VMX井上氏は超雨男であるというのは定説となっている。 当日,昼の芋煮+深夜までのミーティングで20時間ぐらい呑みっぱなしの人もいて,宴会場のテーブルに乗せられ搬送されるなど討ち死にする者多数。「山形の人間はなんであんなに呑むんだ」と言われる。「高濃度アルコール摂取技能研究会」の評価がAAAになっていく。 |
1989年 | 東京晴海で開催された「ハムフェア」に参加。また銀座「傅八」でPRUG主催の飲み会に参加。以後毎年夏の恒例行事となる。 |
1989年 | 第?回全日本パケッティアーズミーティング(福島市土湯温泉) 宴会場にはMacやNeXTが並び,露天風呂には一升瓶が浮かぶ大宴会。 N3EUA(Bdale Garbee)などアメリカからのゲストも交え,全国・国際レベルのパケッティアーズミーティングとなる。しかし話題の中心はパケット通信から,UNIX,TCP/IPなど,確実にインターネット時代へ変化していた。全パケは後にPARTECH(パルテック)に引き継がれる。 |
1989年 | KA9Q(Phil Karn)がXerox 820 というCP/Mマシンで開発し,IBM-PCのMS-DOSに移植した無線TCP/IP通信ソフトKA9Qインターネットパッケージが日本に持ち込まれ,PC9801のMS-DOSへの移植が盛んに進められる。PRUGではKA9Qインターネットパッケージを核に,ニュースを読むyomi(よみ),yomip(よみぴー),書込みするkaki(かき),ニュースやメールを転送する(UNIXのsendmailに相当)soroban(そろばん),これにメールソフトのoimo(おいも)をセットして,よみ・かき・そろばんの「寺子屋システム」として無線でTCP/IP通信(今でいうインターネット)を行うシステムを提供した。 |
1989年 | 東京のPRUG勉強会を参考に,米沢市で毎月1回コーア技研勉強会を開始。 |
1990年 | ハムフェア参加。「コーア技研田町迎賓館」登場。後に,武蔵中原に移るが,約10年間,毎年夏のハムフェアの宿泊&宴会場となる。JA7FSP玉橋さんお世話になりました。 |
1990年 | 山形県南部を中心に430MHzで寺子屋システムの無線ネットワーク構築を始める。JI1FGXはUNIXワークステーション(SONY NEWS)を導入。有線はUUCP,無線はTCP/IPでニュース・メールの転送を開始する。初めてfj.*などのニュースグループの記事を読み,個性的な投稿者に感動?する。全国の寺子屋ネットワーク用のニュースグループampr.*,山形ローカルネタ専用(実際は全国に転送されていた)yamagata.*など多数の寺子屋ニュースグループが誕生。 |
1990年 | 第4回東日本パケッティアーズミーティング(山形市大野目温泉)・第2回コーア技研芋煮会開催 これが最後の東パケとなる。大野目温泉の宴会場に3〜4台のUNIXワークステーションを持ち込む。イーサネットの同軸ケーブル(10BASE-2)が畳の上をごろごろ転がり,浴衣姿の男たちが酒に酔ってUNIXマシンを操る光景は,はっきり言って異様!隣の宴会グループがこちらの宴会場を覗き込んでびっくり仰天。「何だぁ!?こいつら宴会場で仕事してるぅ・・・!!」 |
1991年 | JI1FGX上野氏の転勤でコーア技研勉強会は山形市で開催するようになる。第3回コーア技研芋煮会開催。以後恒例イベントとなる。 JA7ISU宅でEME(月面反射通信)の受信実験。15Elex8のアンテナを製作。 |
1992年 | インターネットの商業利用始まる。日本初の商業プロバイダーIIJ誕生。 |
1992年 | コーア技研内で中古のUNIXマシンがはやる。NEWS821 NEWS1450 NEWS1230などに9600bpsモデムの組み合わせ。しかしトレイル・ブレィザーのモデムは高かった・・・9.6kの速度で13万〜20万円もした。(今も持っています。秋葉原のジャンク屋で500円という値札見てショックでした) |
1993年 | 64kbpsのISDNがぼちぼち普及し始める。JA7HEDいたさか氏が導入し,UUCPでニュース・メール転送。ISDN工事の時,「何の業務用ですか?」と聞かれ,「個人用です」と答えたら「へ??」という顔をされる。個人でISDNなんて何に使うの?と不審がられる時代だった。工事でもプロとユーザの習熟レベルがあまり変わらず,工事屋さんも調整に首をひねっていた。 |
1993年 | 64kbpsの高速無線パケット通信実験を行う。1.2GHz帯を使用。山形市内で2kmの距離でFTP転送に成功。 |
1994年 | CERN(ヨーロッパ合同素粒子原子核研究機構)でWWWサーバが開発される。 |
1995年 | JA7HEDのUNIXマシンにMOSAICブラウザを入れ,Web閲覧可能になる。 この年の11月Windows95が日本でも発売。行列ができる。(実は私も並びました。TV局のカメラよけながら・・(^^;; ) 山形でもインターネットパブ登場。山形市と米沢市でコーア技研望年会を同時開催。インターネットパブ「ぴあ〜れ」の回線を借りてCu-Cme(TV電話)で同時乾杯。 |
1996年 | 6月 コーア技研羊の丸焼き&バーベQ始まる。(馬見ヶ崎川河原) 8月このホームページが立ち上がる。 山形市内でバーチャルLANをテーマに講演&勉強会(講師:日本シスコシステムズ 櫻井氏) |
1997年 | 4月 NAL花見 6月 羊の丸焼き 7月 JH7KPK歓迎会(呑む口実) 10月 第9回芋煮会 11月 tohoku.*芋煮会参加 12月 望年会 とにかく宴会の多い年 |
1998年 | 第10回芋煮会 |
1999年 | 7月 羊バーベQ(河原) 8月 ハムフェア参加(横浜) 10月 第11回芋煮会 11月 Partech'99仙台市で開催。TRCO(東北アマチュア無線研究会)・コーア技研主催。 |
2000年 | 8月 ハムフェア参加 東北自動車道で宴会カー故障するも無事帰還 10月 第12回芋煮会 |
2001年 | この年で山形県内の430MHz無線TCP/IP寺子屋ネットワークはほぼ役目を終え,11年にわたる運用を停止した。 9月ハムフェア参加(横浜) 10月 第13回芋煮会 |
2002年 | ブロードバンド時代となり,山形でもADSLの普及は著しい。ただし,コーアメンバーが3人ほど住む山形市金井地区は光収容地区のため,Flet’sからもYahoo-BBからも見捨てられ,アナログダイヤルアップでくやしい思いをしていた。それでもADSLの電話勧誘がくることにML(メーリングリスト)上で不満バクハツする。もう,メタリックワイヤはあてにならんと,久々に高度アマチュア無線技術研究会のワイヤレスプロジェクトを起こし,唯一ADSLが利用できるJR6QGK/7を中心に2.4GHZ・11Mbps無線LANで半径400mをカバーする金井HS(ホットスポット)を立ち上げる。深夜,車にノートPCを積み込み,町内をうろつき電界強度測定をするなど,ほとんど不審者行動だった。アンテナやケーブルに苦労したものの,約1ヶ月で金井HSが稼動しJA7ISU(距離約100m)JF7NBE(距離約370m)はブロードバンド文明開化と相成った。めでたし,めでたし・・・・ 10月 第14回芋煮会 12月 望年会 |
2003年 | 4月19日 NAL(現在はJAXA)花見 10月12日 第15回芋煮会 11月 8日 芋煮Stuff打上げ会 12月27日 猛吹雪を突いて望年会 |
2004年 | 1月 信念会 10月10日 芋煮会2004 |
2005年 | 10月9日 芋煮会2005 |
2006年 | 10月7日 芋煮会2006 |
2007年 | 10月8日 芋煮会2007 |
2008年 | 10月14日 芋煮会2008 |
2009年 | 芋煮会休止 |
2010年 | 10月10日 芋煮会2010 |
2011年 | 10月9日 芋煮会2011 12月17日 望年会 |
2012年 | 10月 芋煮会2012 |
2013年 | 9月 芋煮会2013 |
2014年 | 10月12日 芋煮会2014 |