飛鳥杏華の
気まぐれモノローグ



3月30日(火) 4月27日(火)
5月25日(火) 6月29日(火)

上記以前のものは、懐古館に移動しました。


<2004年>

3月30日(火)

 母の転院先探しは難航…。介護老人保健施設に申込はしたが、入れるのはいつになるかわからない。とりあえず、つなぎで入れるどこかの病院を探さねば…。あらためて知る、老人介護の難しさ…。これを読んでるあなた! そのうち他人事ではすまなくなるんだからね…。

 2月25日〜3月2日、セミナーを受けてからしばらくは、とりあえず習ってきたことの実践に努める。食欲もそれなりになってきたし、小さい声ながら、よくしゃべるようになってきた。昨年の暮れには、ほとんど骨と皮だけだったふくらはぎも、しっかり太くなってきた。ちょっとむくんで、パンパンに張っているのが気がかりだが、痛みはないと言う。看護師に聞くと、車イスで座って生活していると、そうなることがあるという話だった。

 3月3日、休暇をとって日中に病院へ行く。一度、母がリハビリしているところを見てみたかったので、リハビリの予定時刻より少し前に着くようにした。ところが、この日にかぎって予定より1時間早くリハビリに行ってしまっていた。(まいったなぁ…。汗) まあ、それでも半分くらいは見ることができた。

 前半は、実習生からマッサージを受けたり、柔軟体操をしたりだったが、後半は先生の指導を受けながら、4つ足の歩行器(キャスターはついていないもの)を使って歩く練習だった。もう、平行棒のつかまり歩きは20往復くらいできるらしい。思っていたよりもずっと足の回復が進んでいたことに驚いた。途中、1度休憩を入れたが、結局、歩行器を使って20mほど歩いた。このまま順調に回復すれば、もしかして…。

 3月4日〜3月14日、困ったことが起きてしまった。まだ、何かにつかまらないと歩けないはずの母が、夜中にベッドを抜け出し、部屋から出て、廊下で寝ていたのを看護師に発見されたのだ。しかも、廊下に出るまでに何度か転んだりしたらしく、頭にいくつもたんこぶを作っていたことが、その後にわかった。幸い、CT検査の結果、脳には異常は見られなかったが、怖いなぁ…。(汗)

 当の母はというと、自分のしたことはまったく記憶がない。風呂で頭を洗ってもらっていたときに痛みを感じたことでたんこぶに気づいたので、看護師に風呂でぶつけられたと思い込んでいて、「あんなことして、問題にならないのかねぇ?」と、しきりに愚痴っていた。(笑) まあ、たんこぶだけで済んだから、笑っていられるんだけれど…。

 3月15日〜3月20日、病院から転院先探しを催促され始めたので、妹と相談して、区内の介護老人保健施設へ見学兼相談に行くことに決める。そこは、以前からネットで介護病棟のある病院や介護施設を探していて、気に留めていた施設だった。妹の方は病院のソーシャルワーカーからその施設のことを聞き、たまたま行き先の候補が一致した。

 3月21日、区内に2箇所あるうち、私と妹にとって近い方の介護老人保健施設に向かう。現地集合にしたのだが、地図がわかりにくく、道を間違えてしまい、30分遅刻して、妹にどやされてしまった。なさけない兄貴だこと…。(汗) それでも、施設の事務員は親切丁寧に対応してくれた。

 申込書類一式をもらい、施設を見学する。まだ、できて間もない施設だけに、きれいだし、広々としてしている。食堂を兼ねたレクリェーション広場は、天井も高く、病院のような圧迫感がないのが、何よりもいい。併設の病院との兼用だが、リハビリ器具も充実しているし、ここに入れれば文句なしだ。それでいて、料金も食事代込みで月7万いかない。

 しかし、それだけの施設だけに、やはり順番待ちが大変だ。最低でも3ヶ月待ちだと言う。それに、いられる期間はやはり3ヶ月が基本で、最長でも6ヶ月までだ。いつまでたっても転院先探しの苦労からは解放されそうにない。在宅介護に比べれば楽をしているわけだが、この落ち着かない状況もかなりの苦痛だ。行き先が見つかるまで、しばらく在宅でということができるならまだしも、今の仕事をやめて、在宅でできる仕事を探さなければ、到底無理だ。けれど、この歳で転職は無理だろう。収入面の不安もあるし…。

 とりあえず、この介護老人保健施設の申込は妹に任せることにし、私は特別養護老人ホームの方をあたってみることになった。こうなったら、とにかく申込んでおいて、いちばん早く入れるところに行くしかない。特別養護老人ホームなら、入れれば生涯いられる。が…、まだ71なのに、それでいいのかな…?(汗)

 3月22日〜3月27日、いよいよるみけっと5本番が近づいてきた。21日は準備集会だったのだが、介護老人保健施設の見学のために出席できなかった。直前の準備集会に参加できなかったのは初めてのことなので、不安が募る。年度末で仕事も忙しくなってきているし、るみけっと5の翌日は休暇がとれそうにない。かなり厳しいことになりそうだ。(汗)

 そんな最中、25日にギックリ腰をやってしまう。幸い、症状はいつもより軽めだが、重い荷物の運搬には耐えられそうにない。メールで助っ人要員の手配を依頼し、自分でも比較的近くに住んでいるスタッフに救援を依頼した。が、あくまでそれは当日のこと。それまでの準備は非常につらかった。(汗)

 土曜日には、展示する原画・動画のラッピングと持って行くプレゼント品の整理をする。るみけっと2以来の古同人誌閲覧コーナーがあるので、同人誌の箱詰めをし、当日のディスプレイに使うBOXを100円ショップでまとめ買いした。ビデオ撮影もするので、電源の延長コード類も多めに調達した。個人的には例年になく大変な状況にあるのに、何かやること多すぎのような…。(汗)

 3月28日、妹一家とともに母を連れ出して、病院の近所の公園に花見に行った。時期的には少し早く、五分〜六分咲き程度だったが、桜の名所ということもあって、すごい人出だった。大分回復してきたことでもあるし、この日に花見に行くことは、前々から約束していたのだが、直前のギックリ腰で、車イスを押すのが結構つらかった。(汗)

 それはともかく、家族で出かけられて、母も満足していた。公園に、この近所ではちょっと有名な和菓子屋が出店をだしていたので、おだんごを買ってきたのだが、母が、誰よりも早く1本たいらげてしまったのには驚いた。久しぶりの外出だし、家族と一緒だから、食欲もわいたのだろうか。何にしても、いい傾向だ…。(笑)

 3月29日〜3月30日、腰の痛みと闘いながら、とりあえずはお仕事…。4月に入れば、決算も控えているし、しっかりやっておかねばならない…はずなのだが、やはりちょっと気が入らなかったりする。(笑) まーまー、そいつはしかたないってもんだろう。るみけっとは、私にとって生き甲斐の1つなのだし…。(仕事は、生き甲斐じゃないのか…。笑)

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4月27日(火)

 母の回復は進んでいく。歩行の方はやや頭打ちになってきたが、食欲が旺盛になってきて、病院の食事では足りないと言い出す。ついこのあいだまで、食べてくれなくて心配していたのがウソのようだ。これで、転院先が決まれば言うことなしなのだが…。(汗)

 3月31日〜4月3日、仕事が忙しく、帰宅が遅くなる中、るみけっと5の最終準備をする。土曜日にはいよいよ展示する原画・動画の貼り込みだ。テープの粘着力の関係で、前日にやるしかない。腰が痛いので、非常につらかった。(汗) そして、CRうる星やつらの動作確認と機内のパチンコ玉の抜き取り。循環加工でないから、これが大変だ。いまさら加工には出せないし、失敗したなー。(汗)

 4月4日、るみけっと5当日。毎年同様、7時半頃に迎えに来てもらい、荷物を車に積んで、Pioへと向かう。今回は腰が痛いので、準備はもっぱら指示だけで、自分はビデオカメラのセッティングの方を中心にやった。まあ、何はともあれ、始まってしまえば何とかなるものだ。即売会時間中は、主にプレゼントコーナーの受付とビデオ撮影で動きまわった。腰が痛いわりには、ハードなことしていたような気も…。(笑)

 コスプレでは、着ぐるみの犬夜叉と珊瑚が登場して、大いに注目を集めた。何とも、すばらしい出来である。しかも、結構演技もしてくれている。パチンコを前に、盛んに首をかしげたり、仕掛けがどうなってるのかをのぞこうとする犬夜叉…。妙に様になっている。カメラを向けられてるのに気づくと、大袈裟に驚いてみせたりして…。とても絵になる。イベントを大いに盛り上げてくれた。

 プレゼント抽選会、ジャンケン大会も盛り上がり、今回もまずまずの終幕。打ち上げをして、荷物とともに帰宅の途につく。が、いろいろやって、やはり相当疲れていたのだろう。車の中で寝てしまった。気づくともう家の前…。これで、翌日が休暇ならよかったのだが、これで出勤はつらいな…。みなさん、お疲れさま。ありがとう…。

 4月5日〜4月10日、こんどは本業の方が佳境を迎える。まだまだ、このあたりは序の口といったところだが、各支部から数字が上がってくると本番突入だ。末端での決算事務はやったことがあるが、上部組織での決算は初体験である。それなのに、担当者は、私とやはり決算初体験の係長の2人きり…。何ともひどいお話ではないか。(汗)

 帳簿等の細かい数字のまとめは私がやり、係長には固定資産の保有状況など、資料的な書類のまとめを頼んだ。しかし、Excelの扱いに不慣れな係長に、いちいちやり方を聞かれる。これでは、自分の仕事がちっとも進まない。土曜日に臨時出勤しても、あまり効果は得られなかった。どう考えても、配置ミスだよなー。責任者、出てこ〜いっ!!(怒)

 4月11日、ここしばらく病院に行けないでいるうちに、母の回復は進んでいた。歩行の方は、あまり変わっていなかったが、食欲がいつのまにか旺盛になっていて、病院の食事だけでは足りないと言い出し、叔母がポータブルジャーで追加のおかずを持ってきていた。母の場合、食事の制限があるわけではないし、これまで食が細くて、やせすぎていたから、多少太るのはむしろ歓迎だ。

 昨年の暮れには、まさに骨と皮だけのようになっていた足も、いつのまにか、しっかり肉がついてきていた。しゃべれるようになったことで、周囲の患者や看護師ともコミュニケーションがとれるようになってきて、もうテーブルに突っ伏していることもなくなったし、表情も明るく、笑顔が見られるようになってきた。

 問題は転院先だ。ここまでよくなってきただけに、もう少しこの病院でリハビリを受けたいのだが、規則は規則である。3ヶ月を過ぎたら、たたき出されるということはないだろうが、それまでには行き先を決めておいて、受け入れ態勢待ちの間だけ延長してもらえるというかたちになる。前に妹と見学した、介護老人保健施設に早く空きが出てくれるといいのだが…。

 4月12日〜4月17日、仕事がいよいよ本番だ。毎日、帰宅が深夜になる。当然、母の転院先探しなどする余裕はない。が、3ヶ月目となる4月の末は目前だし、病院から盛んに催促されているらしく、妹もちょっとイライラして「どうするのよ!?」とうるさく言ってくる。実際に動くのは妹に頼むしかないが、意思決定は私がしなくてはいけない。それはわかっているのだが…。こう忙しくては、頭も回らない…。(汗)

 とりあえず、今の病院に移る前、最初に相談に行った病院をあたってみてもらうことにする。設備は落ちるかもしれないが、申し込んでいる介護老人保健施設に入れるのは、いつになるかわからないし、すぐ入れてもらえそうなところとしては、そこぐらいしか思い当たらなかった。そこなら、妹の家からも近いし、場所的には悪くない。苦し紛れの選択ではあったが…。

 4月18日、転院先をはっきりとあたり始めたことで、病院側の態度もコロっと変わった。厳密に言えば、4月26日には転院しなければならないわけだが、GW直前でもあるし、連休が明けて落ち着くまではいてもいいという話になった。さらに、転院先の病院の受入態勢が整うまで時間がかかるようなら、それまでいてもいいと…。

 これで、とりあえずはひと安心だ。が、また3ヶ月先には転院先を探すことになる。在宅介護ができないかぎり、この悩みは延々と続いていくのだ。普段は政治に対して関心の薄くても、こういう立場になってみると福祉政策の重要性を痛感する。高齢化社会の中で、3ヶ月しかいられない病院や介護老人保健施設…。民間の有料老人ホームは、まだまだ経済的負担が重い。軽い負担で入れる施設の絶対数が不足しているのは深刻だ…。

 4月19日〜4月24日、仕事はもうパニック状態…。にっちもさっちもどうにもブルドッグ…ってな展開だ。(…って、古すぎて、元ネタわかるやついねーか…。汗) 精一杯、がんばってはみたものの、やはり提出期限には間に合わない。まあ、責任感じて落ち込んでも、事態がどうにかなるわけでもないし、下っ端の私は、ひたすら仕事を続けるだけだ。遅れを1日でも少なくするために…。期日どおり提出したところで、本部が決算書類の確認を始めるのは、多分、連休明けだろうし…。

 決算の方も大変だが、この4月から運用が始まった本部のパソコンシステムも、いろいろとバタバタしていて問題だらけだ。そもそも、3月の半ばに1回だけ操作研修しただけ。テスト運用もなく、ぶっつけ本番のスタートだ。しかも、操作マニュアルがまだできていない。こんなのありか?(汗) 昨年度まで使っていた、うちのシステムの方がよっぽど出来がいい。そのタコなシステムの担当も私に回されてしまった。私って、どうして損な役回りばっかなんだろう…。(泣)

 4月25日、妹から転院先病院との話がまとまったとの連絡を受ける。ただし、最初は一般病棟にしか入れないらしい。母の状態を見て、その後介護病棟に空きが出たら移れるということで、せっかくよくなってきたのに、またしばらくベッドの上で生活することになる。その間に、体がなまってしまわないか心配だ。しかし、他に転院先が見つからないのだからしかたがない。とりあえず、介護老人保健施設に入れるまでの辛抱だ。

 4月26日〜4月27日、仕事を何とかかたちにして、提出した。多分、指摘されて、いくつも訂正があるだろう。しかし、これまでとは全く異なる形式での初めての決算だ。参考にできるものが何もない状態でやってきたのだから、考え方の違いとか、出てくるに違いない。本部が大した指示をしてこないのだから、そうなるのは、わかりきっている。この先はもう、開き直るしかない。言われたら訂正して、それをしっかり覚えればいい。

 次の問題は、出来の悪い本部の新パソコンシステムだ。末端ユーザーと本部との板ばさみで、決算が終わっても、ちっとも仕事が減らない。本部も開発した業者任せで、システムの詳しい内容や操作方法がわかっていないのだから、困ったものだ。結局、私が自分で操作して、マニュアルもどきを作っていくしかない。もう、4月分の締めは目前なのだから…。(汗)

 そんなわけで、母の転院先の問題と仕事でボロボロの1ヶ月だった。母が倒れてから、約半年…。だんだん疲れがたまってきてる。母が順調に回復してくれているのが、唯一の救い…というか、そんな母の姿に、逆に元気をもらっている感じだ。負けてられない…と、思うのだけれど…。(苦笑)

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5月25日(火)

 GW、そして母の日…。例年なら、あらたまってプレゼントなんて照れくさいから、無関心を装って、何もしないできたが、今年はちょっと違う。大変な半年だった…。だからこそ、「がんばって元気になってくれて、ありがとう。」という気持ちが強い。大したことはできないけれど、ちょっとだけ…。(笑)

 4月28日〜5月4日、GWとはいえ、遠出は無理だ。仕事と母の転院先探しで精一杯で、連休の計画をたててる余裕など全然なかったし、妹や叔母が遠出するから、私ができるだけ母のところへ行ってやるようにしなければいけないし…。でもまあ、順調に回復してきている母に会うのは、決して苦になることではないので、こんな連休も悪くない。翌日が端午の節句ということで、柏餅を買ってくる約束をした。

 5月5日、約束どおり、近所で柏餅を買って、おやつ時に病院へ行く。つぶあんと味噌あんを1つずつをペロリとたいらげた母…。夕食前にそんなに食べて大丈夫かと心配すると、こんなの食べたうちに入らないと言う。何とも頼もしくなったではないか。そのくせ、体重が増えてきたことを気にしている。まだ、43kgなのに…。その辺は、何歳になっても女性の性と言うべきかな…。そういうことを気にする余裕が出てきたとも言える。うれしいことだ…。

2日ばかり出勤して、また休日。しかも、日曜日は母の日だ。子供のころ、妹と相談してプレゼントを買ったりしたこともあったが、その後は照れくさいから無関心を装い続けた。妹は、結構まめにプレゼントしていたが、男はねぇ…。マザコンじゃないんだから…。(笑) 

 しかし、今年はちょっと違う。楽しみの少ない入院生活だ。少しでも何か楽しみにつながることをしてあげたいという気持ちになる。まあ、こんな大きな病気をしなければ、そういう気持ちになることもなかったかもしれないというのが、何とも皮肉ではあるが…。(苦笑) それでも、生きているうちに孝行できるのだし…。

 そんなわけで母の日は、以前住んでいたところにあるちょっと有名な和菓子屋で、その店のオリジナル和菓子を買っていった。よさそうなのがいくつもあり、絞りきれなかったので3種類買い、余ったら仏壇に供えればいいと思っていたのだが、3種ともペロリである。まあ、予想してないわけでもなかったが…。(笑)

 5月10日〜5月16日、転院先の病院から連絡があり、24日以降に入れることになった。妹と相談して、28日(金)に転院することを決める。そうなると、少しずつ荷物の整理である。今度の病院では、病院が用意したパジャマ(有料)で生活することになる。せっかく、私服で多少のおしゃれができるようになっていたのに、ちょっとかわいそうだな。でも、他に病院が見つからなかったわけで…。(汗)

 まあ、今度の病院は、希望している介護老人保健施設に入れるまでのつなぎのつもりだ。施設に入れれば、また私服で生活できるようになるし、それまでちょっと辛抱してもらうしかない。とりあえず、転院が済めば、一息つけるし…。(と、思っていたのだが、この病院への転院が、思わぬ状況につながることになる。)

 5月17日〜5月25日、転院の準備を進める。母としては乗り気でない。が、今の病院にはこれ以上いられないのだし、しかたがないのだと何度も諭す。私と妹にしても、設備や環境を考えると、もう少し今の病院にいて、介護老人保健施設の方に移れればと思うのだが、ままならない。ホントにこの「3ヶ月」という縛りは、何とかならないものなのだろうか?

 逆に待っている人たちがいることを考えると、文句ばかり言うわけにもいかないのだが、何とかうまく順繰りに回れないものかなー。患者の増えるスピードに、病院や施設が追いつかないんだろうか。せめて、民間の施設がもっと安くなれば…。土地を買うほどの入所料金を払うようでは、とてもやっていけないよ。(涙)

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6月29日(火)

 ようやく母の2度目の転院が完了。ところが、この病院への転院が、母の体に思わぬ影響をもたらすことになる。一刻も早く、この病院を出たいとこぼす母…。そこへ、朗報が…。

 5月26日〜27日、最終的な転院準備を終え、あとは病院を移るのみだ。午前中に今までの病院を出て、転院先に入る。いくつかの検査と診察を受けてから、病室に落ち着くことになる。前回の転院のときは、直後に風邪をひいて、しばらく面会に行けなかったから、今回は自分の体調にも気を遣った。もっとも、前回も急にきたのだから、終わってみないとわからないが…。

 5月28日、約4ヶ月お世話になった病院を退院する。直前まではずっと笑顔だった母だが、エレベーターの前で他の患者さんたちに声をかけられると、思わず涙が出てきてしまった。転院当初は、声が出なかったこともあり、他の患者さんたちとなかなか打ち解けられなかった母だが、いつのまにか涙が出るくらい、親しくなっていたのだろう。

 妹の夫の車で、転院先の病院に移動する。午前中の検査の付き添いは妹に頼み、私は入院手続きを済ます。ところが、ここでビックリ…。入院費のほかに、様々なところで金をとること、とること…。(汗) いままでの病院が良心的すぎたのだろうか? 他の病院のことはよくわからないので、何とも言えないが、これだけ金をとられる病院は、私にとっては初めてだった。

 まず、寝巻きは病院が用意したものを着ないといけない。当然、有料である。他にタオルやおしぼり等のサービスが1日あたり1000円。これは、頼まなくてもいいのだが、頼まないと顔もふいてもらえない。何でも自分でやることになる。体が不自由な母には無理な話だから、当然、頼まなければならなくなる。また、ベッドに敷く防水シートも有料だし、果ては紙おむつを捨てるのにも、金を取られる。さらに、多床室に空きがなく、2人部屋に入れられたので、差額ベッド代が1日あたり2500円…。

 結局、全部あわせると、月22万円〜23万円もかかる。これまでの病院が月7万円弱だったことを考えると、信じられない差である。差額ベッド代を差し引いたとしても、倍かかっている。こんな病院があるとは知らなかった。もしかして、民間の病院では、これが普通なのだろうか? 私が無知なだけ…?(汗)

 母の年金と私の給料を合わせれば、何とかなるけれど、とても長くいる気にはなれない。3ヶ月のうちに、何とか申し込んでいる介護老人保健施設から連絡が来れば…。いや、それだけでは心もとないので、特別養護老人ホームも本格的にあたってみなければ…。とりあえずは、病室におさまって母も落ち着いたが、転院早々、また忙しくなりそうだ。

 5月29日〜6月4日、経済的な負担から、早くこの病院を出たいという希望はあったが、そうすぐに次の行き先が見つかり、入れることにはなるまい。最長3ヶ月の範囲でと思っていたのだが、母自身が早くも居心地の悪さを訴えはじめた。前の病院より狭いし、設備的にも落ちる。しかも、療養型病棟には入れずに、一般病棟に入ったので、ほぼ一日中ベッドの上での生活になってしまったから、体がなまるし、他の患者さんたちと交流できるような場所もないから、退屈でしかたがないらしい。少しでも早く、ここを出られるようにしてやらないと…。

 介護老人保健施設(略して「老健」)の方の手続き関係は、妹に任せていたので、私の方は特別養護老人ホーム(略して「特養」)をあたることにした。以前から、ネットで近くの特養にあたりをつけていたのだが、土曜日の午後に相談の約束を取り付けた。と、老健からも、同じ土曜日に母の状態を確認に来るという連絡が入った。これは、結構早く移れるかも…。ちょっとばかり、期待がふくらんだ。

 6月5日、まずは特養に行き、入所の相談をする。自治体によって若干の違いはあるかもしれないが、私の住んでいる区では、区営も民間も、すべて区に申し込みをすることになっていた。個別に受け付けてはいないのだ。一応、希望は書けるが、1つの施設だけを希望すると、そこに空きができないかぎり入れない。早く入りたいなら、多くの施設に希望を出しておいた方がいいが、それだと、どこに入ることになるかは選べない。これは、結構つらいかもしれない。

 申込みも半年に1度で、次の締め切りは9月末。結果が出るのが年末あたりということで、すぐに入れる施設を探している私にとっては、とてもお話にならないレベルだった。が、それでも、先々の行き先を考えると、一旦入れば、一生いられる特養は、一応、申込んでおいた方がいい。とりあえず、その場で申込書を書いて、母のいる病院に向かった。

 そして今度は、母の病室で、老健の看護師との面談だ。要は、母の状態を確認するだけなので、結構、気楽なムードで進んだ。そんな中で、看護師に両腕を上げてみせるように言われた母が、頭の上までしっかり両腕を上げたのには驚いた。前の病院にいたときには、腕が肩より上に上がらないと言っていた。前の病院で、毎日していた体操でも、腕を上げる運動は無理だと言って、やろうとしなかったのに、いつのまに…。早くここから出たいという気持ちが、それを可能にしたのだろうか? そんなバカな…と、このときは思ったのだが…。

 6月6日〜6月13日、母の愚痴が、どんどんひどくなる。いちばんの不満は、トイレに行きたいと訴えても、待たされて、なかなか連れていってもらえないことだ。そのため、とうとう我慢しきれずに漏らしてしまい、せっかく日中はおむつなしで過ごせるようになっていたのに、それ以降、また日中もおむつに戻されてしまったのが、かなりショックだったようで、もうここにはいたくない。何とか、元の病院に戻れないものかと何度も私や妹に訴えるようになった。

 そうはいっても、出たばかりの病院にすぐ戻れるわけがない。次に予定している老健の看護師は、面談の最後に、1ヶ月のうちに会議があり、それで決まると言っていた。何とかあと1ヶ月がんばってもらえば…。ということで、母がかわいそうだとは思いつつも、何とか慰めて、老健まで持たせるようと思った。その分毎日、面会終了時間ギリギリでも、なるべく行ってあげるようにする。母も、私の顔を見ると、「助かった。(トイレに行ける。)」と喜ぶ…。(笑) その繰り返しが、次第に発展していくことになる…。

 6月14日〜20日、病院の対応の悪さを愚痴っていた母だが、もうあきらめて、開き直ったようだった。あまり世話してもらえないなら、自分でやるしかない。次の施設や前の病院に入れないのなら、家に帰りたい。そのためには、歩けるようにならないと…。その気持ちが、驚くほど急速に母を回復させることになる。これまで、車イスは押してもらうばかりで、自走させようという気力がなかった母が、自走でトイレに行くようになった。トイレでも、手すりにつかまりながら、自分でパンツの上げ下げをするようになる。そして、週末には、車イスから歩行器に昇格だ…。

 まったく、何が幸いするかわからない。この病院への不満が、結局のところ、前の病院では頭打ちになっていた母の回復を急速に進行させることになったわけだから、皮肉というか、何というか…。(苦笑) もっとも、回復が進んだからといって、すぐに家に帰れるかというと難しい。何しろ、私は独身だから、日中は母の面倒をみる人がいない。ヘルパーを雇うにしても、8時間までしか保険がきかないし、狭くて段差の多い今の家では、介護が大変だ。帰らせてあげたいのは山々だが、それが本当に母にとっていいかどうか…、何とも難しいところだ。(汗)

 6月21日〜28日、体の回復の方は目覚しかったが、心の方はひどくなる一方だった。一刻も早くこの病院を出たいとこぼす…。あまりにもつらそうなので、妹に前の病院に戻れないか打診してもらう。が、いい返事はもらえなかった。基本的にはダメ…。ただし、次に予定している老健に入れる日が決まって、それまでの短期間ということなら、検討してもいいという話だった。

 面談のときの話だと、老健の会議は7月の初旬くらいと推定できる。まだ、全然連絡はないし、結果を聞くのは早すぎると思ったが、妹からもせっつかれ、老健に電話してみる。と、判定会議が次週の月曜日にあるので、火曜日以降に連絡して欲しいという回答があった。早速、それを母と妹に伝える。ちょっとだが、希望が見えたので、母も少し落ち着いた。そして、真の朗報は、火曜日にもたらされた。

 6月29日、昼休みに老健に電話をして、会議の結果を確認する。と、7月12日以降、入れるとの回答…。思わず気持ちが高ぶる。早速、妹に連絡して、母に伝えてもらうようにする。次の老健も、期限があることには変わりないが、とりあえず、今の病院から母を解放してあげられることがうれしかった。もちろん、懐の方も解放されて、うれしかった。(笑)

 というわけで、母が落ち着けば、いよいよ夏コミである。(って、いきなり話題、そっちへ飛ぶのかよ。笑) 書き忘れていたが、久々に当選してしまっていた。新刊を出したいところだが、これからではちょっと…。以前から、いずれ出そうと思っていた再録本の方は、何とかなると思うが…。まったくの再録じゃ芸がないしなー。どうしたものか…?(汗)

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