陰の声


宝暦十三年(1763)


おれが十歳の頃、老中は田沼意次になったっけな。[1772年]
二十五歳の頃に、寛政の御改革が始まった。[1787年]
一揆や打ちこわしも多かったし・・・なかなか大変な頃だったぜ。






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柏原村


 おれの住む、この村も年貢の取り立てがきびしくてな。何度も何度も一揆や 暴動が起こっているよ。
 将軍様じきじきの直轄領、いわゆる天領ではあるが、なんせ標高 671mの寒 冷の地、しかも土質は痩せた火山灰。満足な作物もとれない貧しい土地なんだよ 。

 おれたちは開墾につぐ開墾で農地を広げ、必死の思いで生きていこうとして いるんだ。
 子供だって昼は終日菜摘み草刈り、夜は草鞋をつくって、とうてい読み書き なぞ学べるような豊かさはない。

 ただ、北国へ向かう中山八宿の一つでもあるから、夏には大名行列も通って 、賑わうこともあるが、冬になると雪に閉ざされて、人通りは全く途絶えちまう 。 軒まで積もる雪に埋もれながら、ひと冬を越さねばならない。貧しくつらい 生活が待ってるんだよ・・・。


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一茶


もちろん、生まれてすぐ「一茶」なんて名乗ってたわけじゃないよ。
「弥太郎(やたろう)」ってのが、おれの名前さ。
親父が「弥五兵衛」って言うから、その「弥」の字を頂いたんだ。
この名前についちゃ、昔、 不思議な話 を聞いたことがあったね。




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不思議な話


 唐突だが・・・昔、おれが旅から旅への生活を続けてた時の話だ。

 おれは上州(群馬)のある俳人を訪ねるつもりだったんだが、ちょうど留守 でね。しかたなく、もと来た道をとぼとぼ歩いて帰ろうとして、とある養蚕の盛 んな村を通りかかったんだ。
 時刻はもう夕暮れ。しかし蚕(かいこ)に喰わせる桑の若葉が盛りの頃で、 村人たちはまだ忙しそうに立ち働いている。

 日も暮れつつあるし、どうしたものかと思案中のおれの目にとまったのが、 一人の、みすぼらしい老人だ。腰のかがまった、まるで尺取り虫が木の幹を伝っ ていくような、老いぼれだったが、なぜだかおれはそいつに引きつけられたんだ 。

 何かに引きつけられるように、その老人のあとをついていくと、老人はこれ またみすぼらしい一軒の農家に入って行く。そっと覗いてみると、家の中には、 ひょろひょろと痩せ衰えた老婆が眼鏡を頼りにわずかばかりの蚕を飼ってるんだ 。老人の妻なんだろうな。
 その老夫婦とは縁があったのか、その晩、おれはその老夫婦の家に厄介になることになった。そして二人の話を聞くことになったんだ。

 聞くと、この老夫婦の間には昔一人の子どもがあったんだが、これも前世の因縁なのか、燃え盛る薪木(たきぎ)の上に降る 雪のように、はかなくこの世を去ってしまったという。それ以来、生きる気力を失い、今はこのような貧しい稼業で余生を送 るだけなのだという。

 養蚕の忙しさにかまけて忘れていたが、明日は息子の命日だったではないか。今日ここに来て下さったのも何かの縁だろうから、ぜひ念仏でも唱えてくだされ。そうすれば息子も、あの世で満足することでしょう、と。

 おれは、その頃、頭を剃っていて、服も僧衣だったから、きっと旅の坊さんに間違えられたんだろう。しかし今更むげに断るのも冷たい仕打ちだ。おれは形ばかりの念仏 で、その息子とやらを弔ってやることにしたんだ。
しかし仏壇に向かって、おれは驚いた。

 位牌には「安永三年 四月十四日 没年十二歳 俗名 弥太郎」とあるではないか!! 指折り数えてみると、ちょうどおれと同年の生まれ。 しかも俗名までもが同じ「弥太郎」!!

 あわてておれは老夫婦に、その子の生まれた日を聞いてみた。すると、五月五日で、それまでもがおれと同じ!! なんという偶然!!いや何かの引き合わせ か!!

 旅を住処とする我が身を振り返れば、これまでいろんな人に出会い、いろん な家を訪ねてきたが、こんな不思議に出会ったことはなかった・・・。

 こうして世にもまれな一夜が明けた。 おれは老夫婦に引き留められたが、そら恐ろしい気分になって、 早々にその家を立ち去った。 あの老夫婦も今ではもう息子の傍に逝っちまった か・・・。
 そんなことがあったなあ、昔の話さ。

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三歳で実の母と死別する

[1765/明和2年]

 おれのおふくろは、おれが3歳の頃に死んだよ。もう顔も覚えてないな。
 名前は「くに」って言うんだ。

 おふくろのないおれを、近所の悪ガキどもはよくはやし立てたっけ・・

   「親のない子は どこでも知れる
      爪をくわえて 門(かど)に立つ」


 おれはあまり子ども同士で遊ぶことも少ない子どもになっちまってたな。 裏の畑で積み上げた割木や茅のかげで一日過ごすこともあったっけ・・。

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継母

[1770/明和7年]

 親父は、おれが八つの頃、後添え、つまりおれからすると継母だが、それを 貰ったんだが、結局おれとはうまくいかなかったな。
 名前は・・・ええと・・・「はつ」だったかな。「さつ」だったか。





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異母弟

 [1776/安永元年-誕生]

 「仙六」って名前でね。おれは弟を年がら年中抱いてあやさなきゃならなか ったよ。
 赤子のよだれや小便、大便にまみれてさ。しかもちょっとでも泣きだそうも のなら、「何泣かせてるんだ、わざとだろう」なんて疑われてな。---







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孤独な子ども


 結局、ひとりなんだよ、おれは・・・・。
 
   我と来て 遊べや親のない雀

 おれが八歳の時の作だ・・。(いや六つだったかな)







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祖母の「かな」

[1776/安永5年-死去]

 おれはもっぱらばあちゃんに育てられたんだが、そのばあちゃんだって、お れが十四歳の時に死んだ。
 その頃おれは継母と仲たがいしていて、ばあちゃんだけがおれの救いだった よ。 唯一人の味方だったばあちゃんも死んで、ショックからか、おれは熱病に 罹って死ぬか生きるかの瀬戸際に追い込まれたんだが、結局生き残ったよ。
 あの時、死んじまったほうがよかったのかもしれないな。

   生き残る 我にかかるや 草の露

 ばあちゃんの三十三回忌の時の句

   秋風や 仏に近き歳のほど

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江戸に奉公

[1777/安永6年]

 15歳で故郷を出て、江戸に荒奉公に出なきゃならなかった時に親父は、い ろいろ言って送り出してくれたっけ。
 「悪いもの食うんじゃないぞ」とか「人に可愛がられるんだぞ」とか。
 あれから結局おれは何回故郷に帰って親父の顔を見たんだろうな。 死に水 をとれただけでも幸せと言えるもかもしれないけど・・・。

親父の初七日に・・

   父ありて あけぼの見たし 青田原


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口減らしの意味もあった


 地方の農民は年々都会へ流れ出て、田畑は荒廃し、一方都会の地価はあがり 、浮浪化する遊民の数も鰻登りだ。 年貢も納めず、国の労役も担わない奴等が どんどん増えているし、秩序を守るべきお侍連中は太平に浮かれて、性根も腐っ ちまってる。
 おれ自身だって遊民の身の上だったから偉そうには言えないが、幕府の根幹 を危うくする事態なんだろうな。 幕府の財政も逼迫して当然か・・・。




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「乞食首領一茶」


 乞食が家持っちゃあさまにならないかな? 見ろよ、江戸で親しくしてもら ってた旦那から届いた手紙なんだけどね。 「貧乏人の友達がいないので さみしい、はやく戻っておくれ」だとさ。 おれは貧乏が売りものだったのかね。







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諸国を旅し

[1792-1798/寛政4-10年/西国行脚]

 俳諧の道で、おれの師匠となるのが二六庵竹阿(にろくあん・ちくあ)って 人だ。
 この人も俳諧師らしく旅から旅への人だったよ。81歳で死んだけど、おれ が死に水を取って、二六庵の印をいただいたんだ。 西国の方に弟子をたくさん 持っていて、おれが西国行脚の旅に出た時には、師匠のお弟子さん達にずいぶん 助けられたよ。二六庵を継いだと言えば大抵の人達はおれの宿くらいはなんとか してくれたもんな。(たかってるんじゃないぞ!!)

   塚の花に ぬかづけば故郷なつかしや

 竹阿の墓碑が四国観音寺にあるんだが、これはそこを訪ねた時に詠んだのさ 。今ではもうどこにあるか、わからなくなっちまったんじゃないかな。

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父が倒れる

[1801/享和元年]

 初夏の、ある晴れた、山ほととぎすが初音を告げる頃のことだ。おれの親父 は畑で突然倒れた。なすびの苗に水をやっていた時のことだった。

 ちょうどその頃、おれは江戸から久しぶりにこの故郷に戻って来ていたが、 まさかそれが親父の最期になるなんて思いも寄らなかったよ。
 傷寒(の一種)と言って、急に熱が高くなり、肌は火がついたように熱い。も ちろん食べ物なぞ喉を通ろうはずもない。医者は「助かる見込みは万に一つ」な んて言って、匙を投げてしまう。
 それなら祈祷でもやらかしてみようかと思ったが、親父自身が「まじないは 禁じられている」と頑固に言い張る。
 その上、仙六(おれの義理の弟、継母の子なんだが)に至っては、「親父も 今死ねれば大往生だ」--まるで鬼のような言葉を吐きやがる。

 おれは思案の末、善光寺から名医と名高い先生を呼んで診て貰った。けど、 見立ては何も変わらなかった。助かる見込みは万に一つ。・・・けど、薬がよく 効いたのか、一時は小康状態を取り戻したよ。

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一ヶ月ほど


 親父は傷寒でほぼ一ヵ月ほど寝たきりだったが、季節外れの初夏の頃、ありの実が食べたいなんてわがままを言い出した。
(あっ、「ありの実」ってのは「梨・なし」のことだよ。「無し」じゃ縁起が悪いからね)

 もちろんそんな季節に梨なんて蓄えているものがいるはずもない。けど、お れは親父のためを思ってわざわざ善光寺まで梨をさがしに出かけたよ。(ちょう ど薬を貰いに行く日でもあったからなんだけどね)

 青物屋から乾物屋まで、いろんな店や市場を回ったが、梨なんてどこにも売 ってはいない。昔、中国では病気の母のため、雪の中から筍(たけのこ) を掘り 出した息子がいたっていう話を聞いたけど、おれにはそんな奇跡は起こっちゃく れなかった。

 親父はさぞおれを待ちわびていることよ、そう考えたら思わず泣けてきて、 人通りの多い往来であるにもかかわらず、大の男が涙を流したよ・・・。
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亡くなってしまう

[1801/享和元年-死去]

 結局、親父は一ヵ月ほど寝たきりの状態が続いた後、死んだよ。
 臨終は夜もしらじらと明けつつある卯の刻、眠るように息を引き取った。

 おれはそれですべての肉親を喪ったわけだ・・。母、祖母、そして親父。
 後に残ったのは・・・・。
  いや言うまい。ただ一句。

   父ありて 曙みたし 青田原

 本当に地獄を見たのはその後だったが・・・。



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遺産相続問題

[1801-1812/享和元年-文化9年]

 おれが故郷の信州柏原村を出たのは十五歳の時だった。その原因となったの も、おれと継母の不仲が原因だったんだ。 親父は死ぬ前に言ってたよ。
 「お前をわずか十五で、江戸に出し、荒奉公させてきたのも、お前と継母とが 不仲だったからだ。もしかして、故郷を出たら、慕わしく思うこともあるかと思 ってな」と。
 そしておれにどこそこの畑や土地を残すと明言してくれたんだ。

 継母や義弟からすりゃ、理不尽な話かもしれない。 なにしろ、故郷を出て 、三十年近くも漂白の身の上の男がいきなり帰ってきて、財産を半分よこせって んだからな。
 しかも別に食いはぐれているわけじゃない。江戸では俳諧の宗匠として、そ こそこ食えてはいる人間だ。
 今さら何を思って帰ってくるんだってのが本音であっても仕方ないのかもし れないな。

 おれは長男だが、すでにふるさとを出て久しい年月が経ってしまっている。 村の人々ももはやおれに何の懐かしみも持ってくれてはいないようだ。それどこ ろか、やっかいな訴訟問題を持ち込んできた、ややこしい男と考える風もある。
 ふるさとはおれにとってもはや、懐かしいふるさとじゃあない、そんなこと も考えたっけなあ・・・。

   ふるさとや よるもさはるも 茨(ばら)の花

 だけど、おれの血の中にも確かに土に生きる農民の血は流れている。 そし て何よりこの地は、おれの本当のおふくろや祖母や、そして親父が眠る、おれの ふるさとなんだ。 そう簡単には捨てられないよ・・・・。

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そこそこ食えている

[1811/文化8年]

 この頃、「正風俳諧名家角力組」っていう番付表を見たんだ。
 こいつは最近の俳人を、相撲に似せて番付表に載せるって趣向なんだけど、 おれの名前は東の最上段の8人目だった。けっこう名も売れてるだろう。

 でも、 貧乏 にはあまり変わりなかったな。なにしろ「乞食首領一茶」だからな。 もっと も 貧乏ってのは、風流生活にとっちゃあ恥でもなんでもないけどね





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貧乏


 おれが信濃に引っ込んでから、「貧乏人の友達がいないのでさみしい、はや く戻っておくれ」って手紙をくれた旦那がいたよ。
 この手紙の主は「夏目成美」って言って、江戸の札差、まあ金貸しみたいなもんだ。 俳諧もうまいし、お れも添削をよく頼んでるんだよ。おれがそこそこ有名になれたのもこの人のおか げなんだろうな。

 ところがある日、この旦那の店で、大枚の金がなくなって、その時ちょうど おれも成美の旦那の家にいたんだな。あれだけつきあいの深かったおれでさえ、 もしかするとってんで六日間も家から外へ出されなかったよ。

 しょせん金持ちなんてそんなもんだなと、あの時おれは思ったなあ。

 おれは随分あの人には世話になったんだが・・・中風で亡くなったっけ。
 あの人への追悼は、こんな句だ。

   霜枯れや 米くれろとて 鳴く雀

 最後までおれたちは、あの人に米をせっつく雀だったんだ・・。
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使用料


 金ならあるぞ。前に話したっけ、継母と義弟と争っていた遺産相続の問題が 片づいてな。大金持ちとはいかないが、この柏原村に住み着いて食っていくだけ のものはちゃんとあるんだ。
 家だってあいつらと折半して南半分に住んでるだけだが、それで充分だ。
 結局12年間続いたのかな。ずいぶん長い間続いた訴訟問題だが、最後は江戸に訴え出るって言ってやったら、突然態度を変えやがったよ。いやあ長かった。その間、 おれは何度も江戸とここ信濃を往復したし、おれの村民としての権利を守るため に金も入れておいたしな。苦労してるんだよ。

 ついでにおれは弟の仙六にこう言ってやった。本当なら親父が死んでからそ の後、すぐに財産がおれのものになるはずだったんだ。親父の死から最初の調停 まで、7年間おれの土地と家はお前らがただで使ってたわけだから、その分の上がりと家賃として三十両よこせってな。

 さすがにこれは調停が入って十一両二分にまけさせられたけどな。
 あはははははは・・・。
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故郷に戻った

[1813/文化10年]

 こんな句はどうだい?

   ふしぎなり 生まれた家で 今日の月

 漂白四十年、おれの人生だよ・・・ 長い旅路だったよ。
 とうとうおれは帰って来たんだなあ・・・

   名月の 御覧の通り 屑家なり

 たいした家じゃないけど、せっかく親父が残してくれた家だ。大事にしない とばちがあたるよ。
 この家は義理の弟や継母と折半して住んでんだけどね。いろいろあったよ。
 でも帰って来たからにはこの地で骨を埋めるしかないよ。そうだ。この信濃 の地におれの俳諧閥を作ってやるんだ。今に見てろ、江戸のくそったれどもめ。
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結婚

[1814/文化11年]

 まだ28の女房を貰ったんだ。おれとは20歳以上も違うべっぴんだ。「菊 」ってんだよ。
 この歳になって、千代の小松のだとかめでたがられてさ・・・恥ずかしいね え。

   五十婿(むこ) 頭(つむり)をかくす 扇かな

 照れかくしだね・・・。





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長男「千太郎」

[1816/文化13年]

 おれの子だよ。四月に生まれたんだ。
 歳取ってからの子だったから、それそれは嬉しかったんだ。おれもやっと人 並に家庭ってものを持てるようになったんだなあってね。

 けど、生まれて一ヶ月で死んだ。 おれは家族運てものが全く無い人間なんだろうかね。せっかく授かった子 なのに、こんなにわずかな月日で別れねばならないなんて・・・。

 子どもの育て方も知らない奴だって、つい女房にも言っちまったよ。おかげで、最近は、夫婦仲もしっくりい かなくてな。悩みの種の一つはそれだ。

 あいつはあいつでよくやってくれてるとは思ってるんだ、本当は。
 しょっちゅう家を空けて に出るおれに変わって、畑仕事もよくやってくれる。家を折半して住んでる おれの継母や腹違いの弟夫婦とも仲良くやってくれてる。本当におれみたいなお いぼれにはもったいないやつだと思うさ。

 つい最近のことだ。あたりにあいつの姿が見えなくて、ついおれは悪い想像 を働かせてしまったことがある。あの子のこともあったから、気を病んで、もし や身投げとか、おもいつめた行動に出たのではないかと・・・。
 おれは慌てて近くの川まであいつを探して走り出たよ。でもその時あいつは 家の陰で洗濯してただけでさ。一人で慌てたおれと、後で大喧嘩だ。 翌日あい つはおれがせっかく植えた木瓜の花を抜いて仕返ししやがったな。はは・・・。
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 旅と言っても、なりわいのための旅ばかしでね。
 文化十四年[1817]は家にいたのは、一年通して見ると九十日余りだったかな 。
 文政元年[1818]だって家にいたのは、三月は八日だけ、四月も九日だけ、七 月は十日ぐらいかな。
 十月頭から十一月にかけて、上田って所の向源寺ってお寺でお世話になって たな。
 向源寺では、盗賊に入られて三両ほど取られちまったな。
 それから、十月の半ばに嫁さんの実家の方で火事が起こって、おれが預けて おいたものが焼けちまった。しかも嫁の親父さんが屋根から落ちて骨を折るし・ ・・。
 けっこう身の回りでもいろいろあるよ。

 近々、芭蕉様ばりの奥州紀行を試みようとは思ってるんだけどね。
 ちょっと、奥州紀行に出かけたつもりになって、文章でもしたためてやろう 。

 さきの年(1804)の大地震で鳥海山はくずれて、海をうづめ、甘満寺は地の底 に沈んだ。
 「松島は笑うがごとく、象潟(きさがた)はうらむがごとく」といったのは芭 蕉翁だが、今、大地震に隆起して田野と化したこの地を見れば、まさしくこの象 潟の地は「うらむがごとく」よな。

   象潟の欠(かけ)をつかんで鳴く千鳥

 どうだい。まるで行ったみたいな文章だろう?

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『おらが春』


 まとめ上げたのは文政3年[1820]年のことだ。
 でも中に書いてあるのは、文政2年の一年間のことばかりだけどね。 文政 2年の正月から師走までの一年間の句日記みたいなもんだ。






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長女「さと」

[1818/文政元年-誕生]

 「さと」って言うのは、ものごとに「さとく賢くあれ」ってつもりで付けた名前なんだ。
 生まれつきは、おれの子だから愚か者かもしれないが、それでもな・・・。

 正月には一人前の雑煮膳も据えてやるつもりだ。
 ちょっと前まではまだまだ赤ん坊だったが、最近はやっともののわかるころ になってきた。ちょうち、ちょうち、あわわ、おつむてんてん、なんてやってやると喜んでね。
 他の子供が持ってる風車をしきりに欲しがったりするから、持たせてやった ら、むしゃむしゃ食べはじめて・・・。
 けどすぐにそれも捨てちまって、今度はそこらにある茶碗をひっつかんで、 投げては打ち壊していく。それにも飽きたかと思うと、障子の紙をめりめりむし りはじめる。

 でも甘いんだなおれも。ついつい、そんな悪さをしても顔はほころんでしま う。

 「よくした、よくした」なんて誉めてやると、本当かと思って、きゃらきゃ ら笑ってまたまた障子をむしりに行くんだ。 心のうちには一点の曇りもない、 清らかな様子を見ていると、おれの心の皺まで伸びてくるように思われるんだ。

 わんわんは?と聞くと犬を指さし、かあかあは?と聞くと鳥を指さす。
 わが子ながら、口元から爪先まで愛嬌こぼれるように愛らしい。まるで春の 初草に胡蝶が戯れているような感じだよ。

 またこいつはこの年でなかなか信心深くてね。
 仏壇の鐘を鳴らすと、どこに居ても、急いで這って来て、早蕨(さわらび)の ような小さな手を合わせて、「なんむなんむ」と唱えている。しおらしく殊勝なことよと思われるね。
 おれ自身は、頭に霜をいただき、額にはしわしわ波の寄せ来る歳になっても 、迷いが晴れず、成仏できそうにはないね。


 仏壇や赤ん坊の前では神妙にしていながら、その座を離れると、膝にむらが る蝿をにくみ、膳の上を飛び回る蚊をそしっている。あまつさえ仏が戒めた酒ま で飲んで・・・とうていいい死に方はできそうにないな、こりゃ・・・。


 もう少し大きくなって、振り分け髪の似合う五、六歳になったら綺麗な着物 を着せて踊らせてみたいもんだな。そしたら、二十五菩薩の管弦よりすばらしい に違いないって、ひそかに思ってる。



 この子はちっとの間もじっとしてなくてね。ばたばた手足を動かしてるから 遊び疲れるんだろう。朝は日が高く上っても、まだ眠っている。

 眠ってる間だけが、のんびりくつろげる時間だ。母親の菊(つまりおれの嫁 さんだけど)も、掃除・食事の支度ができるのもその間だけだ。
 泣き声が目覚めの合図で、手早く抱き抱えて、裏の畑で小便をさせて、乳房 をあてがうと、ちゅぱちゅぱ吸い付きながら、胸板あたりを打ち叩いて、にこに こ笑顔を作るんだ。

 母親なら、十月十日の胎内の苦しみもあったろうに、また日頃のお襁褓(む つ)の世話とか、大変なことも多かろうに、すべてを忘れて、この上ない宝を手 にしてるような有り様さ。

   蚤のあと かぞへながらに 添え乳かな

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痘(いも)の神に見込まれ

[1819/文政2年-死去]

 六月二十一日の、朝顔の花のしぼむ頃だった。あの子が息を引き取ったのは ・・・。
 疱瘡(天然痘)にやられたのさ。疱瘡神のおこしだったんだ、あの子に・・・ 。

 あどけない、みどり子の笑顔が、膿を持った水ぶくれにおおわれて・・・ そばで見ているのも痛々しく、さながら楚々と咲いている初花が、泥雨に打たれ 、しおれたかのような・・・。 思い出しては、胸が痛む・・・。

 疱瘡神退散のまじないも行った。 みずぶくれも、二、三日すれば瘡蓋(かさ ぶた)になって取れていくから、まじないがきいたかと思った時もあった。
 だが、子どもはますます弱っていくばかりで、ついに臨終を迎えるしかなか った。 母親は(つまりおれの女房だが)死に顔にすがりついて、よよと泣き崩れ る。

 行く川の流れはふたたび帰ることはなく、また、散る花は梢に戻ることはな い。 そんな道理を、頭の中でこねくりまわしてみても、やはり思いきりがたい のは恩愛の絆というものだ。世の無常はけっして嘘ではなかった・・・。

   露の世は 露の世ながら さりながら・・・

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次男の石太郎は三ヶ月の命

[1820/文政3年-誕生]
[1821/文政4年-死去]

 三番目の子だよ。千太郎やさとのようにはさせるまいと、石のように堅く永久(とこしえ)たれと思ってつけた名だ。
 けれど・・・三ヶ月ちょっとで死んじまったよ。 あの馬鹿のせいだ。・・ ・いや、そんな事を今さら言ったとて・・・。

 おれの愚妻だ。菊のことだよ。あいつが・・・。
 おれがあんなに口を酸っぱくして言ったのに・・・。
 まだまだ首も坐らないんだから、下手に抱いたり、背負ったりしちゃならな いぞって・・・。そう言ってやったのに、あいつがあの子を背負ったりするから ・・・・

 可哀想に、窒息死だよ

 石太郎の石は、墓石の石だったんだよ。 哀れなことだ・・・。
 悔やんだって悔やみきれない。だが、あいつを責めるわけにはいかない。 あいつだってそんなつもりはなかったろうし・・・・あいつまでもが・・・。
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妻の「きく」

[1823/文政6年-死去]

 おれの女房だ。あいつはもういない・・・。 あいつは死んだ。
 痛風が元になったのかと思うが、腎の病が進んじまってな。
 わずか三十七歳の生涯だった。

 二歳の赤子を残して先立つのは、さぞ心残りだったろうと思うよ。 おれに とっても、あいつほど気の合う奴はなかったのにね。

   わが菊や なりにもふりにも かまわずに

 以前に作った句だけどね・・・本当になりふりかまわず、よくやってくれた よ。
 おれの家は、継母のおはつや腹違いの弟・仙六などと、一軒の家を二つに割 って暮らしてるんだけどね。仲は本当はよくないんだ。
 そんなおれ達の仲に入ってくれたのも、考えてみればあいつだった。
 また、おれは弟子廻りで、家を開けがちなんだが、その留守もよく守ってく れた。

 おれなんぞには過ぎた女房だったと思うよ・・・。

   涼風や 何食はせても 二人前

 これもあいつの句だよ。子どもを産んだばかりで、腹が減って腹が減って、 しょうがないって時の句だ。 元気な奴だったんだけどね・・・。 もうこれ以上 思い出させないでおくれ。つらくなるから・・。
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三男「金三郎」

[1822/文政5年-誕生]
[1823/文政6年-死去]


 四番目の子だ。 あの子が死んだのは、母親が死んじまったからかもしれな いな。
 乳も与えられずに、骨と皮になっちまったこともあったから・・・。
 それが尾を引いたのか、たった二つで亡くなっちまったよ。

 しょうがないんだ。おれだって、そうしたくってそうしたんじゃない。 母親が寝込んじまって、しょうがないから赤渋村の富右衛門に預けたんだ。
 うちには乳が出る娘がいるからっていうから、養育費も与えて託したんだ。

 それなのに、ちょっと見ぬうちに、がりがりになっちまってた。 男手一つ で育てるよりはと思ったのが仇になったんだ。

 母親は・・菊はそのまま死んじまった。
 しかも預けられた富右衛門の娘と言ったら・・・。

 乳が出るなんて嘘だ!! 乳が吹き出て困る、まるで樽の栓を抜いたみたい でしょうがない、なんて言ってやがったが、そんなの全くの口からでまかせだっ た。
 おれはこっそりあの娘が金三郎に乳を与えようとしてる所を見ちまったんだ 。

 あの娘、胸はぺったんこで、まるで男の胸のようなもんだった。
 乳を飲ませるふりをしつつ、実は水を飲ませるだけだったんだ。

 それを知った時、おれは怒り心頭に達した。 それまでは、けらけらと笑顔 も愛くるしい、男の子であったのに、手足は細って、まるで金釘のようになって いた。
 腹は背にひっついて、骨ばかりが浮き出て、声もまるで蚊が鳴くような声し か出せない。
 目は輝きなく、半目を明けただけで、うつろに空をにらむばかり。あの時、 あの子を見た者達は皆、「この子も母と同じく、煙となってこの世を去る運命か」と口を揃えて嘆いていた。

 おれは、富右衛門をののしり、金三郎を取り戻した。その時、あいつの言っ た言葉が恐ろしい。
 「へっ。どうせこの子は死ぬ運命だ。まあ五日の命か。たとえそれ以上生きら れたとて、遠からぬうちにはな。」

 その呪詛は当たらなかった。 五日の命は長らえて、金三郎は少しずつ回復 していった。幸い良い乳母にもめぐりあえて、助かったと思ったのだが・・・。 それが五月のことだったから、もう関係はないはずだと思う。だが・・・金三郎 は、十二月に死んじまったよ。 あわれな命だったと思うよ。あいつも・・・。
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二人目の妻

[1824/文政7年]

 菊が死んだ後、縁を持ってきてくれる人があってね。再婚したんだ。
 「ゆき」って名前で、飯山藩士・田中様の娘だ。三十八歳だから、やはりお れには若すぎた女房だったんだな。
 二ヶ月ちょっとで離縁になっちまった。 もっともあっちで勝手に出ていっ たんだが・・。








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失禁までする


 おれも老いぼれたと思うよ。

 「菊」と結婚した頃でさえ、こんなことがあった。 江戸の方である人の屋 敷に泊まったんだが、年末の煤払いの後、ふるまい酒を飲み過ぎて、粗相をしち まったことがあるんだ。 夜中、小便に行きたくなって寝床から起きだしたんだ が・・・確かに便所と思って用をたしたところが、実は隣の部屋だった。 板の 間に小便をぶちまけて、後でそれに気づいた時、ああおれも老いぼれたなあって悲しくなったよ。

 それからずいぶん体の方もおかしくなってきやがるしさ・・・。 ちょっと 酒を飲むとすぐに瘧(おこり)の発作が出るんだ。瘧なんていってもわからないかな。一種の熱病なんだけど ね。

 千太郎が生まれて死んだ年には、 全身にヒゼンが出来て、痒いのなんのって。(ヒゼンってのは、疥癬のことさ。)足の裏ま でできものが出来て、歩くことも出来やしない。
 これも前世の宿業か・・口の悪い奴らは安淫売の悪い病気を貰ったんだろう なんて言いやがるが。
 一時は山寺に篭もって、療治に努めたよ。
 塩風呂にはいったり、いろいろ試したっけ・・。

 石太郎が生まれた頃には、雪道で転んだせいか、中風になっちまった。
 いったんは回復したんだが、最近また出てきやがる。

 病気になって思うのは、所詮、一升の徳利には一升の酒しか入らないってことだな。おれの人生もこんなもんだなって、しみじみ思うよ。
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三人目の妻「やを」

[1826/文政9年]

 おれはまだあきらめちゃいない。 おれはもう一度、子を作るぜ。まだまだ 枯れてなどいられない。 実は、三度目の結婚をしてるんだ。
 「やを」と言ってな・・・三十三歳の女だ。おれが六十五歳の時だから、不 釣り合いかもしれないが、なあに、向こうも子連れの再婚だ。割れ鍋に閉じ蓋っ てもんで、けっこう仲良くやってるよ・・・。
 倉吉っていう、二歳の子を連れてるんだ。元気な子だよ。 あの子を見てる と、もう一度、おれ自身の子を、おれの血を残したいと思うんだ・・。 はは、 どうやらあいつは、「やを」はおれの子をはらんだみたいだ・・・。
 今度こそ、間違いはしないぜ。おれの子を・・・この一茶の血を残すんだ。

 おれの生きた証しだもんなあ・・。 そうさ、おれは・・・・。


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大火

[1827/文政10年]

 閏六月一日のことだった。ここ、柏原で大火事が起こった。
 八十三戸を焼く大火事だ。おれの家も・・・継母や腹違いの弟・仙六と折半 していた家も、きれいに焼けちまったよ。
 残ったのは、土蔵一つさ。あとはすっからかんだ。

 あの時は恐ろしかった。江戸では何度も大火事に出会ってきたおれだが、や はり火は恐ろしい・・・。





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一茶は没し

[1827/文政10年]

[補説]


 小林一茶は文政十年(1827)、十一月十九日、焼け残りの土蔵で、その生涯を 閉じた。 その翌年(1828)、四月に彼が最後に残した、遺腹の娘「やた」が誕生 している。 生涯、家族縁の薄かった小林一茶は、ついに自らの孤独を癒すこと なく、この世を去ったのだった・・・。


 彼は生涯に二万句に及ぶ俳句をひねり、また独特の俳文、記録類を残し、文 学史に特異な足跡を残した。 その句は子どもや小動物など、社会的な弱者への あたたかい眼差しにあふれている。

 幼少期からの家庭的な不幸が彼の作風に陰影を与えていることは言うまでも ない。
 飄逸かつ庶民的な、生活感情の微細な趣を句にひねる彼の作風は、他に類を 見ず、彼の作風はまねようと思って、まねられるものでないという。また彼の作 風をまねるものに大成はないともいう・・・・。一茶は一茶一代の存在であった ・・・。

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遺腹の娘「やた」

[1928/文政11年-誕生]
[1973/明治6年-死去]


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