近 況 

(緊急報告2 1997.9.30)

最高裁のクレームにたいする弁護団の見解


 昨夜(9/29)17時51分、自宅のFAXに弁護団の見解が入っていましたので、緊急報告します。


「       インターネットへの訴訟記録の公開について

 今回、最高裁から指摘された、訴訟記録をインターネットのホームページに掲載している問題に関し、新しい問題であり見解が別れていますが、弁護団としては次のように考えます。

 明文の禁止規定がないこと、また、刑事訴訟法第47条において「訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない」と規定していることから開廷後の公開は禁止されていないと解釈できること、さらに、被告人の表現の自由の観点から、法律には違反していない。
 ただし、当然のことであるが、訴訟記録の公開によって、第三者のプライバシーの侵害、名誉毀損等がないようにすることが必要である。

  1997年9月27日

         弁 護 士  橋 本 佳 子
         弁 護 士  金 井 克 仁
         弁 護 士  竹 内 義 則   」


近 況 

(緊急報告 1997.9.19)

HPの内容に最高裁調査官がクレーム?


 9月16日(火)午後10時55分
 橋本佳子弁護士からTEL。「今日、最高裁の調査官から呼び出しがあって金井克仁先生と行って来た。調査官の話は、あなたがホームページに出している訴訟記録について、刑事訴訟法の趣旨に照らして不適当と考えられる、ということでした。明日午後8時から事務所で緊急に相談したい」

 9月17日(水)午後8時20分〜9時
 東京法律事務所で相談。出席者:橋本、金井、竹内弁護士, 金子、三宅
 橋本弁護士「昨夜話したとおり、調査官の話では、弁護人が謄写した訴訟記録を被告人がインターネット上に公開するのは刑事訴訟法の趣旨に照らして不適当、ということです」
 三宅「違法だと言うのですか」
 橋本弁護士「違法と言っているのではありませんが、一応、どう対処すればいいか、弁護人が結論を出すまで止めてくれませんか」
 三宅「止めるつもりはありません。自分の人権を守るためにデタラメな捜査書類など全て公開する予定でやっています。行政指導みたいなことをされて自主規制することには反対です」
 金子さん「調査官から言われるままに帰ってきたんですか。被告人を弁護するのが弁護士じゃないんですか」
 金井弁護士「本件だけじゃなく、他の事件にも影響することなので、よく考えて対処する必要がある」
 橋本弁護士「とにかく、結論が出るまで、新しく出すのは待ってくれませんか」
 三宅「新しく出すのだけですね。何時までですか」
 橋本弁護士「そうです。2週間」
 三宅「弁護人が謄写した訴訟記録だけですね」
 橋本弁護士「そうです」
 三宅「では、2週間待ちます」


   −−−近況(第7報)(4.13〜9.15)は、ただいま準備中−−−


近 況 

(第6報 1997.4.12)


 2月17日(月)午後6時30分
 東京池袋の東京芸術劇場で、「えん罪・名張毒ぶどう酒事件」への最高裁「特別抗告棄却決定」に抗議する緊急集会が開かれた。友人金子眞さんに誘われ高澤正比古さんと共に参加。講師の宮原哲朗弁護士は平和ホームズの元幹部社員の親友で、私もよく知っている人だった。「しばらくです」「平和ホームズの事件はどうなりました? 心配していました」など挨拶を交わす。また、会場で22年ぶりに高校教師時代の元同僚にも会う。「名張毒ぶどう酒事件・奥西勝さんを守る東京の会」に入会。

 2月21日(金)
 最高裁判所内司法協会へ、竹内義則弁護士から依頼して貰っていた「訴訟記録」のコピーを受け取りに行く。
 高澤さん、金子さんと一緒に、高澤さんの元刑事弁護人塚越豊弁護士の事務所を訪問。そこでの話。
 高澤さん「すでにお話している通り、私は再審請求を竹内義則弁護士に依頼しています。実は、無罪方向の決定的証拠は検察官開示の書類証拠物の中にあったため、新証拠として利用できません。私の裁判の際、先生は始めから『執行猶予狙いで行く』と言われ、それらの証拠を全く問題にしていませんが、何故そういう方針を採られたのか、教えて貰えないでしょうか。出来れば再審請求の証拠にしたいので文書にして貰えないでしょうか」
 塚越弁護士「依頼の趣旨がよくわからないので、文書にして下さい」

 2月27日(木)午前10時30分〜12時30分
 東京法律事務所で上告趣意書作成の打ち合わせ。
 橋本、金井、竹内の3弁護士がそれぞれ用意したメモを配布。橋本主任弁護士が用意した「検討課題」(B5用紙1枚)のメモに基づいて上告趣意書作成の役割分担を決めた。

 3月1日(土)
 金子さんを誘って横浜市中央図書館へ。判例調査をし、憲法関係の本4冊を借りる。

 3月5日(水)午後6時
 金子さん、高澤さんと共に埼玉県在住の元社員2名と会い、金子、高澤、柿沢、三宅4名のインターネット・ホームページをプリントアウトしたファイルを渡す。

 3月9日(日)
 高澤さんと共に千葉県在住の元社員宅を訪れ、金子、高澤、柿沢、三宅4名のインターネット・ホームページをプリントアウトしたファイルを渡す。

 3月26日(水)午後2時30分〜4時30分
 東京法律事務所で上告趣意書作成の打ち合わせ。
 金井弁護士「証拠開示の手続きをしているが、地検の記録は、有れば連絡くれることになっている。28日には結論が出る」
 高澤さん「自分の元弁護人塚越豊弁護士に、検察官開示の供述調書等の中に無罪方向の決定的証拠があったのに公訴事実を争わなかった理由を文書にして回答して欲しいと、手紙で依頼をした」
 竹内弁護士「高澤さんの再審準備は、来週時間が取れるので、集中的にする。したがって、三宅さんの事件での自分の分担は、高澤さんの供述の変遷に止めて欲しい」
 橋本主任弁護士「承知しました」
 三宅、最高裁に回付されている「訴訟記録」の中に、「控訴趣意書」に対する「検察官答弁要旨」−−−事前にも事後にも弁護側に渡されていない書類−−−が編綴されている事実を指摘、そのコピーを配布。また、つなぎ融資とその付け替え手続きに関し、新たに判明した事実を説明、ノートのコピーを配布。
 橋本主任弁護士「次回には、各自文書にまとめて持参して欲しい。でないと、間に合わないから」
 次回: 4月9日午後4〜6時    次々回: 4月21日午後2〜4時

 3月28日(金)午前
 「訴訟記録」のコピー代がバカにならないので何とか事前に閲覧できないかと考えて、最高裁判所第二小法廷担当書記官吉田さんに電話する。
 吉田書記官「本件では『訴訟記録』を被告人が直接閲覧することは出来ない。弁護人に閲覧してもらって必要箇所をコピーして下さい」−−−−−あーぁ、やっぱりダメか。
 午後
 金子さんと連れだって、まず三好総合法律事務所に行き、竹内弁護士から委任状をもらい、その足で最高裁判所内司法協会へ行き、「訴訟記録」中の必要だろうと思える箇所の追加コピーをお願いする。今度も多い、高そうだ。

 4月1日(火)午後6時
 埼玉県の某所で、元社員数名と会う。何年ぶりかで12時近くまで飲む。某社で部長職に出世してる某者が全部おごってくれた。三宅「会社のカネじゃないだろうね」 某部長「何言ってるんですか。私の小遣いですよ」 三宅「そうか。すまん」

 4月4日(金)午後6時30分
 東京都港区の新橋福祉会館での「名張ぶどう酒事件・事件の真実を知る会」に、金子さんと一緒に出席。
 講師は若い伊藤和子弁護士。出席者は15名程度。みんなまじめそうな人ばかりで、私たちともう一人新しく参加した女性の画家以外は、みんな親しい仲間のよう。20数年前の、学校勤め時代の教職員組合活動を思い出した。誘われて8時半からの二次会に参加。
 金子さんと私が「名張毒ぶどう酒事件」をインターネットで紹介することに了解してくれた。

 4月9日(水)午後4時30分〜6時30分
 東京法律事務所で上告趣意書作成の打ち合わせ。
 上告趣意書草稿を持参した者は竹内弁護士唯一人。竹内弁護士が高澤供述の変遷に関する草稿内容を説明。
 次に、金井弁護士が「証拠開示命令申立書」の草稿説明。
 高澤さん「弁護士は一貫して正しかった、警察・検察官や裁判官は一方的に悪い、という主張では、最高裁判所もよく理解できないと思います。公判調書の尋問内容と最終弁論や控訴趣意書の内容があまりにもかけ離れ過ぎています。橋本、金井先生もはじめは間違っていた。三宅さんが保釈されて東京拘置所から出てきてから、次々に証拠が発見された。私も二度目に弁護側証人として出廷した時には、先生方が聞いてくれないので勝手に喋って裁判長に注意されたりした。そういう中で弁護方針が変わって行き、一審の結審間際にやっと「二重ローン」は無いというように弁護方針が変わった。そのことを言う必要が有るのではないでしょうか」
 金子さん「間違いは誰でもあると思う。それを訂正することが大切だと思う。自分も裁判をはじめから傍聴しているけれど、逮捕されて、高澤さんは自白したのだから、はじめは、全く何も無いことはないだろうと思っていた。だから、高澤さんの前の弁護士から頼まれて、嘘の情状証言をしてしまい、高澤さんや三宅さんに迷惑をかけてしまった。先生方も証拠が発見される中で弁護方針が変わって行ったということを書けばよいだけだと思う」
 三宅「弁護方針は、大きく二度変わった。そして、二度目は、犯罪そのものが存在しないという風に根本的に変った。しかし、その弁護側の主張に対する審理は殆ど行われずに、スケジュール通りに結審し、有罪判決が下された。上告趣意書は、判決内容については当然だけれども、審理不尽についても強く主張して欲しい」
 橋本主任弁護士「弁護方針の変遷を含めて上告趣意書を書きます」
 竹内弁護士「ところで、鎌田常務の横領の件、早くまとめて下さい」
 三宅「ハ、ハイ」


近 況 

(第5報 1997.2.15)


 1月10日頃
 竹内義則弁護士に、電話で、かねて依頼の書類証拠物の複写の件を督促。
(東京法律事務所所属の橋本、金井弁護士が忙しいので、昨年12月、筋違いの竹内弁護士に依頼していた。竹内弁護士は、三好総合法律事務所所属。高澤さんの再審請求の準備を進めている。第二審段階から手弁当で(この点は、橋本、金井弁護士も事実上同じ。ただ、感謝あるのみ)私の弁護団にも加わってもらっている。竹内弁護士は、正直に「・・・そんなこと言ったって、私は手弁当でやっているんですから」と言う人だ。そういう竹内弁護士に、私は、ついつい頼み事をしてしまう)

 1月15日
 最高裁第二小法廷から「上告趣意書差出最終日通知書」が特別送達される。

 1月20日夜
 橋本弁護士より電話。「最高裁より通知来ていますか。27日午前10時から打ち合わせしましょう」

 1月24日
 金子さんと横浜市中央図書館に行き、判例調査。

 1月27日午前10時30分
 東京法律事務所で、橋本、金井、竹内弁護士と金子、高澤、三宅、1時間余打ち合わせ。
 私たちが出しているホームページついてひとしきり話題。プリントアウトして見せて欲しいとのこと。私たちがインターネット上で情報公開することに反対していた橋本、金井弁護士も事後承諾か?
 三宅、上告趣意書提出期限延期申請を要請。橋本主任弁護士了解。

 1月28日
 最高裁判所内の司法協会へ、書類証拠物(複写)を受け取りに行く。¥37,540円也。「うーん、参った」

 1月30日
 「最高裁 名張ぶどう酒事件の再審認めず」との新聞報道。
 著名な人権派法曹人の大野正男裁判官にしてこういうことでは、日本の刑事司法は暗黒と言うほかはない。
 (日弁連も冤罪だとして応援しているはずなのに、その後の展開が何も報道されてない。どうなっているのだ? 日本では、冤罪なんてそれほど珍しくないということか? それとも、冤罪なんて財政再建や行政改革などに比べたら軽い問題だというのか? この国の人権感覚はどうなっているのだ?)

 1月31日
 刑事司法の違法と闘っている福岡市在住の綾田正道さんより、ホームページのデータが入っているMOディスク(MAC用)が送られてきた。意見を聞かせて欲しいとのこと。

 2月1日
 金子さんに誘われて、高澤さんとともに、「死刑廃止フォーラム 2.1シンポジウム」に参加。

 2月6日午後4時15分
 東京法律事務所で、橋本、金井、竹内弁護士と金子、高澤、三宅、約1時間半打ち合わせ。
 まず、橋本弁護士から上告趣意書提出期限が3ヶ月延びた旨の報告。次に、上告趣意書の内容について意見を出し合い、高澤、金子、三宅と弁護士との間で議論。私たちが弁護方針の変遷をもホームページに公開しているのでちょっと気分を害したかな? 次回までに各自問題点の整理をすること等確認。次回:2月27日午前10〜12時

 2月10日
 綾田正道さん、刑事司法の違法を告発するホームページを開設。
 URL: http://www.network.or.jp/ayata/

 2月11日
 元設計課長柿沢直海さん、「平和ホームズ事件」というホームページを開設。
 URL: http://www.netlaputa.or.jp/‾naoumi/


近 況 

(第4報 1996.12.24)


 12月20日夜
 インターネット弁護士協議会(ILC)の忘年会に、友人金子眞、高澤正比古と共に、参加してきました。インターネット時代にふさわしい法曹界の新局面が、今まさに開かれようとしているんだなぁ−−−。そういう感じを受けました。
 また、これまでの経験では、人々は、その刑事被告人を「なるほど無実だな」と理解しても、さりげなく距離を置きます。しかし、この会の代表の牧野二郎弁護士は、会って間もない私に対して「どしどし発言して下さい」とまったく屈託がない。このことも新鮮な驚きでした。

 12月21日夜
 金子、高澤、柿沢、私の4人で、ささやかな忘年会。
 酒がまわってからの会話の断片。
 金子「柿沢さんもホームページを開いてよ」
 柿沢「(高裁で証拠調べがなかった以上)当然だよ。高裁は俺の出番だと思ってたんだから。(反社長派の)牧山と川崎から『三宅社長じゃだめだ。俺たちで経営やろうよ』と誘われたことは、俺しか書けないんだから」
 高澤「確かに、三宅さんを牢屋に入れることがあっては世の中お仕舞いだと思うよ。しかし、警察や検察は怖いよ。ホームページになかなか思い切って書けないよ」
 金子「確かに怖いよ。傍聴の時、高橋久志検事が証人の高澤さんに『何時も傍聴に来てる彼は誰ですか』と俺のことを聞いただけで、俺は怖かったよ。でも負けたらだめだよ。高澤さんは、何時も俺たちに言っていることを書くべきだよ」
 三宅「荒木俊夫検事に何日か尋問準備で呼ばれて『これだけは絶対に忘れないで証言するように』と強要された話や、その時の昼休みに、悩んで日比谷公園をぐるぐる回った話を書かなきゃ(嘘の証言をせざるを得なかった事情は)分からないよ」
 高澤「書いて大丈夫かなぁ。よーし、書くぞ。俺が書くと、くどくなるけどいいかな」
 金子「いいよ」
 高澤「よーし、書く。逮捕される前、警察に出した上申書の件も書いてやる。それにしても、三宅さんは腹が据わっているなぁ。怖くないですか。最高裁で証拠調べがなかったらもう終わりですよ。牢屋に入れられるんですよ。よく酒なんか飲んでられますね」
 三宅「とんでもない。怖いよ」

 12月22日
 ILC忘年会幹事の半田晴彦さんから、忘年会への御礼mailに対する応答mail。「三宅さんもMLに発言して下さい。会の厚みが増しますから」。うーん。牧野先生の話は社交辞令ではなかったのか。

 12月25日(予定)
 平和ホームズの元社員たちと忘年会


近 況

(第3報 1996.12.11)


 11月25日夜。
 橋本佳子主任弁護人からTEL。「今日、保釈金1200万円で保釈許可決定が出た。28日(木)の午前中までにあと300万円納付して下さい」
 「予想よりだいぶ高いですね」「本来なら、今、刑務所に入っていなければならないのですよ」「・・・・・」。
 ともかく、納付を出来るだけ待って貰うよう交渉をお願いしました。勿論、お金の工面のため。

 11月27日夜。
 橋本弁護士からTEL。「保釈金の納期を12月2日(月)まで延ばした。新任の竹内先生に手続きをお願いします」

 11月28日午前9時40分。
 アムネスティ・インターナショナル日本支部の石川さんから会社にFAX。「ひらけ再審東京集会」の案内。
 同日午後6時30分。
 「同集会」に参加。『名張毒ぶどう酒事件の真相』という構成劇を見ました。驚きました。ホントに、「えーっ、今時、そんなことがあるのかーーー?」。そういう驚きでした。ビックリしました。そして、「オレの冤罪事件なんてホントにちっぽけなもんだ。誰も気にしない筈だ」と、妙に納得してしまいました。
 劇の後、江川紹子さん、渡部保夫教授、竹沢哲夫弁護士のトークがありました。刑事被告人の私には、次のような内容の話が印象的でした。
 江川さん「冤罪事件は、証人に偽証という犯罪を強いている。そして、周りの社会を陰湿にしている」
 渡辺教授「裁判官も人間です。だから、世論や弁護側の法廷外活動に影響されないと言ったら嘘になります」

 11月29日夜。
 竹内弁護士からTEL。「12月2日(月)は名古屋出張で都合がつかず、3日午前中に変更して貰った」

 12月3日午前10時過ぎ。
 裁判所1階ロビーで、友人の金子さんが、追加保釈金300万円を竹内弁護士に渡し、保釈手続きを頼んでくれました(と言っても、実際には、私はすでに保釈されているのですが)。
 同日午後。
 保釈金納付手続き完了後、金子さんと私は、先の「ひらけ再審東京集会」の主催団体「再審・えん罪事件全国連絡会」事務所に行ってみました。そこで教えて頂いた話:
 「最高裁は90%以上、自判。法廷は殆ど開かれない。ある日突然に判決書が送られてくるだけ。とにかく法廷を開いて証拠調べをして貰うことが大切。そのためには、証拠調べの必要性がよく分かるように上告趣意書を弁護士に書いて貰うこと、そして、法廷外の活動が大切です。」
(さーて、困った。主任の橋本佳子弁護士、同僚の金井克仁弁護士は、前々から「法廷外活動は一切しない」と言っている。このように、インターネット上で情報公開することすら反対している。・・・どうしたら良いか。)

 12月4日。
 高裁の『判決書』が、橋本弁護士から郵送で届いた。批判の文章は、まず、以前から進めている証拠等の整理を早く終えて、必要な情報をインターネット上に公開した後に、書こうと思う。

 12月7日深夜。
 高澤さんからTEL。「ホームページを開いた。URLは、http://village.infoweb.or.jp/‾fwge8485/index.htm 」

 12月11日>
 金子さんからTEL。「ホームページを開いた。URLは、http://www.netlaputa.or.jp/‾shinkane 」


近 況

(第2報 1996.11.21)


 平成8年11月20日午後1時10分。
 東京高裁第十一刑事部(裁判長中山善房、右陪席裁判官鈴木勝利、左陪席裁判官岡部信也)で、控訴棄却の判決言い渡しを受けました。短いあっさりした判決内容でした(なお、『判決』書を受領出来るのはかなり先のこと)。一回も証拠調べがなされておりませんので、予想された内容でしたが、ただ呆れながら判決言い渡しを聞いておりました。この裁判官たちもまた、自分たちが事実認定の決め手として取り上げた証拠の確認すらしていないのです。たとえば、不動産登記の確認。裁判官が忙しいと言っても、これが出来ない程ではないでしょう。にもかかわらず、その手続きを怠って平気で事実誤認をしてしまうーーー。こういうの、何て言えばよいのでしょうね。人を犯罪者として裁こうというのに。
 なお、私の弁護人のうち、主任の橋本佳子、金井克仁は、「第二審の記録」の中の「(裁判官の)忌避申立書」にあるように、はじめから他の予定が入っていたためどうしても出席出来ませんでしたが、竹内義則が都合をつけて出席してくれました(直ぐ後で述べるように、この日、彼の奥さんが手術する日でもあった)。
 午後1時20分頃閉廷。
 今度は、私は収監されることもなく(第一審「有罪」の時は、東京地検のオリに一時収監された。聞くところによると、裁判官によって取扱いが違うとのこと)、弁護人竹内義則が、直ちに保釈と上告の手続き。その間、私と傍聴にきてくれた友人金子、高澤、柿沢の4人は、裁判所地下の喫茶店で時間潰し。ところが、待てど暮らせど竹内は現れない。高澤が彼の事務所に電話してみると、居る。そして、「実は、これから今日手術した妻の病院へ行くんだ」とのこと。はじめて聞く話。フーム、30歳台後半のこの竹内弁護士、何ていい奴なんだ。
 手続きの結果は、後で聞いたところによると、保釈金の額が未定で、一週間後くらいに、検察官から主任弁護人のところに、連絡があるとのこと、であった。


近 況

(第1報 1996.11.16)

 (誤植の訂正と、本人の申出により友人を実名記入にしました(11.21))
 平成8年2月22日午前10時。
 東京地裁刑事第十一部(裁判長田中康郎、右陪席裁判官田村眞、左陪席裁判官鈴木謙也)で、私は実刑4年の判決を言い渡されました。―瞬、私は自分の耳を疑いました。物的証拠や客観的事実からすれば有罪は有り得ない、と思っていたからです。裁判長の判決言い渡し中、私は、3人の裁判官の顔を生涯忘れないように睨み続けていました。3人とも私と目を合わせないようにうつむき加減にしており、本当に無責任な偽善野郎だと思いました。
 午前11時20分頃。
 言い渡しが終わって、私は一旦東京地検の建物内のオリに収監されましたが、保釈金200万円を積み増しして(合計900万円)、同日午後4時頃、保釈されました。保釈金は、150万円を私の友人の貧乏会社社長金子眞が貸してくれ、残りの50万円を弁護人が、裁判費用として私が支払っていたものの中から、出してくれました。最初の保釈金700万円は、妻の知人の会社社長が私の弁護人を通じて出してくれたものです。両社長の好意がなければ、逮捕されてから約4年4カ月、まだ私はオリの中です。このような情報を発信することもできなかったでしょう。両社長の好意には、心から感謝しています)
 午後4時過ぎ。
 手続きをしてくれた弁護人と出檻を待っててくれた友人金子眞と高澤正比古とともに東京地検の建物を出ました(傍聴に来てくれていた友人柿沢直海は仕事の関係で帰社)。弁護人とはすぐに分かれ、2人の友人と地下鉄霞が関駅の構内で全てのタ刊を購入して読みました。判決は、朝日とサンケイに掲載されていました。小さな記事ですが、無実を全面的に主張している被告人側のコメント記事は一切なく、この4〜5年、毎日を針のむしろの上で生活している妻と年老いた私の両親にとっては、残酷な報道でした。

 判決言い渡しの翌日。
 私は、東京地裁の書記官室に電話して、報道機関に渡している『判決要旨』をくれるよう担当書記官に頼みました。ロ頭での判決言い渡しはよく聞き取れなかったからです。『判決要旨』を読んで、直ちに判決に対するコメントを新聞社にFAXするつもりでした。しかし、「被告人に渡すのは前例がない」として断られました。

 判決言い渡しから40日後の4月2日。
 弁護人から『判決』のコピ―が郵送されてきました。闇討ちされて、人の噂話も消えた頃、『果し状』が届いたというわけです。しかも、『判決』はー部落丁のおまけ付きでした。

 (・・・・・こういう話をしていると、胃がカーッと熱くなってきます。そして、感情が高ぶって、貧しい頭が回転しなくなります。こんな時、私は、何時も自分に言い聞かせていることがあります。「胃潰瘍になったらお仕舞だぞ。ストレスに漬されたらお仕舞だぞ。ひとまず、休め」・・・・・)

 さて、再開。
 ともかく判決書を読みました。読んで、その内容のデタラメさに唖然としました。怒りが心底から沸き上がってきました。あの裁判官たちは、どのように考えて、このような判決を出したのか。逮捕され、起訴されたら、有罪に決まっている、とでも考えているのか。あるいは、朝日の記事を読んで予断を持ち、「この野郎やっつけてやろう」とでも思ったのか。はたまた、ただ忙しくて、ミスを犯してしまったのか(それじゃ、業務上過失じゃないか)。
 それにしても・・・・・、
 警察の、大袈裟ではあるが全く無意味な捜査報告書を「有罪」の決定的状況証拠にしてしまうとは・・・。目はどこに付いているのかッ!! (車を運転中、不注意で人をはねたら、このように怒鳴られる)。
 検寮側証人の矛盾する証言の一方だけをつまみ食いするとは・・・・・。理性はないのか。
 被告人側の提出した証拠を平気で黙殺するとは・・・・・。良心はないのか。
 弁護人が、公判途中、無実に気が付いて、弁護方針を変えた厳然たる事実を無視するのか(弁護方針の変更をした弁護人には心から感謝しています)。こんなことでは、被告人が捜査当局のミスから身を守る防御権は無いじゃないか。だったら、たまたま警察官などから、「この野郎と思われたら、それでもうお仕舞なのか。なんてことだ。
 ーーーなどなど、カッカしてしまいました。

 それから暫くして、
 日本の刑事裁判が、こんなにもデタラメであるなら、法廷で物的証拠や客観的事実を示すことだはでは、私がフツーの人間としての自由を取り戻すことは出来ないのではないか、と考えるようになりました。そこでいろいろと考えた結果、インタ―ネット上で自ら情報を発信しよう、と思い始めたのです。
 しかし、一方で、もう一度、高裁に期待してもよいのではないか、と私の気持ちは揺れ動きました。
 そして、日々の生活に追われて(実際、経済的にも独立している私の妻も「事件」に巻き込まれて1億円以上の負債に追われている)、ーーーちょっと途中を端折りますがーーー、全く優柔不断もいいとこ、方針を決めかねていました。そして、今年の10月16日、高裁の第一回公判を迎えてしまったのです。

 10月16日午前l0時30分
 東京高裁第705号法廷開廷。
 はじめに、人定質問。
 次に、主任弁護人が発言を求め、数分間、『控訴趣意書』の趣旨説明。
 次に、検察官が裁判長に促されて、数分間、何か書面を見ながら意見陳述。
 最後に、裁判長が、被告人である私に、第一審判決後の心境を述べるように指示。私が、立ち上がって証言台に向っていた時、主任弁護人が立って、私を制し、「被告人の情状供述の前に証拠調べをして欲しい。検察側に請求した証拠開示が第一回公判後になるとのことだったので、次回以降に証拠調ベをして欲しい」と要求。
 これに対して、検察官が「その必要はない」とそっけなく答弁。
 すると、裁判長が「被告人は、前に立って」
 そこで、主任弁護人が激しく抗議。
 ・・・・・・・
 同じ様なやりとりを2〜3度繰り返していたところ、裁判長が「これで結審します。判決の言い渡しは、次回11月20日」と言って、アッという間に退廷。
 午前10時45〜50分閉廷。

 弁譲人のその後の活動は、別のべージ「第二審の記録」にある通り。

 傍聴に来てくれていた友人金子眞、高澤正比古、柿沢直海は「これは大変だ」ということで、急遽、「三宅の無実を確信している。証拠調べをして欲しい」という趣旨の嘆願書を集めて高裁に提出しよう、と言ってくれました。私は、証拠物を提出し、客観的事実を明らかにすれば、この「刑事事件」そのものは消えて無くなる、と楽観していましたので、そのようなことをお願いしたことは一度もありませんでしたが、この時ばかりはお願いしました。
 11月7日、嘆願書作成の世話人金子眞と私は、53通の嘆願書を高裁書記官室に提出しました。

 友情は何ものにも替え難い、と改めて感謝しているところです。


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