区分 (西暦)年 (陰暦)月 事項種 事項 人物・詳細等 参照箇所
平氏政権 1177年 5月 事件 鹿ヶ谷の陰謀 「平氏」と「後白河法皇の近臣」との対立の深まりとともに、藤原 成親・僧の俊ェらが、京都郊外の鹿ヶ谷で平氏の打倒をはかり、失敗した。    教科書P86
   4〜7行目
1179年 11月 政治 平 清盛、
後白河法皇を幽閉
後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、関白以下多数の貴族の官職をうばって処罰するという強圧的手段で国家機構をほとんど手中におさめ、政界の主導権をにぎった。 (1)教科書P88
   最初〜4行目
および
   教科書P86
   8〜12行目
1180年 2月 政治 安徳天皇
即位
平 清盛が、後白河法皇の孫であり、平 徳子を母とする安徳天皇(当時の年齢2歳)を天皇の位につける。    (1)の部分
治承・寿永の乱(源平の争乱、源平合戦)    治承・寿永の乱(源平の争乱、源平合戦)           ←           5月 戦い 源 頼政・以仁王ら
挙兵、敗死
   源 頼政(敗死)[対]平 知盛 
   以仁王 (敗死)   
平 重衡
(2)教科書P88
  5〜8行目
6月 政治 福原への遷都 福原(現、神戸市)には良港 大和田泊があり、瀬戸内海支配のための平氏の拠点であった。 (3)教科書P88
   13〜15行目
   同頁脚注@
8月 戦い 源 頼朝 挙兵
石橋山の戦い
   源 頼朝(敗走)[対]大庭 景 ←
            (平氏 方)
   (2)の部分
9月 挙兵 源 義仲 挙兵 信濃の木曽谷にいたため、「木曽 義仲」とも呼ばれている。    (2)の部分
10月 幕府関係




戦い
源 頼朝
鎌倉入り



富士川の戦い
源 頼朝は、挙兵後まもなく、相模の鎌倉を根拠地として広く主従関係の確立につとめ、関東の荘園・公領を支配して御家人の所領支配を保証していった。


源 頼朝    [対]平 維盛(敗走)
   (2)の部分
および
   教科書P89
   8〜14行目

   (2)の部分
11月 政治


幕府関係
都を福原京から
京都に戻す

源 頼朝、
侍所を設置
藤原京への遷都には、大寺院や貴族たちが反対したため、約半年間で京都に戻ることとなった。

侍所は、御家人を組織し統制する機関である。
   (3)の部分


   教科書P90
   5〜11行目
12月 攻撃 平 重衡、
南都を焼打ち
福原京から京都への遷都後の年末、平 清盛 が 平 重衡 に命じ、反平氏の南都の興福寺・東大寺を攻撃、堂塔伽藍(建物の総称、特に大寺院の建物の総称)を焼亡させた。  
1181年 閏2月 事件 平 清盛の死 平 清盛は、「桓武天皇」の血を引く「桓武平氏」のうち、「院」と結ぶことで一族が発展した「伊勢平氏」の代表的人物。太政大臣となり、権力を持ったが福原遷都に失敗し、その後、病死した。享年64歳。 (4)教科書P88
   15〜19行目
4月 事件 養和の飢饉 畿内・西国を中心とする飢饉であり、前年の夏は東日本が大早ばつで凶作となり、この年から2〜3年飢饉が続いた。西日本の支配を基盤とする平氏の打撃は、大きかった。    (4)の部分
1183年 5月 戦い 倶利伽羅峠の戦い
砺波山の戦い
       北陸での戦い
源 義仲    [対]平 維盛(敗走)
   (4)の部分
7月 事件

政治
平氏の都落ち

源 義仲
入京
安徳天皇を奉じて西国へ。

都での源 義仲は政治的配慮に乏しく、後白河法皇の反感をかい、反平氏勢力の掌握に失敗した。
   (4)の部分
10月 幕府関係 寿永二年十月宣旨 京都の後白河法皇と交渉して、「東海道・東山道」の東国の支配権を得る。 (7)教科書P89
   14〜16行目
   同頁脚注@
1184年 1月 戦い 宇治川の戦い
源 義仲 敗死
源 範頼    [対]源 義仲(敗死)
  
源 義経
  (↑源 頼朝の命、両者とも源 頼朝の弟)
(5)教科書P88
   19〜23行目
1185年 2月 戦い 一ノ谷の戦い 源 範頼    [対]平氏(敗走)
  
源 義経
   (5)の部分
2月 戦い 屋島の戦い 源 義経    [対]平氏(敗走)     (5)の部分
3月 戦い 壇ノ浦の戦い 源 義経    [対]平 宗盛 (滅亡)
             平氏 一族(滅亡)
             安徳天皇 (入水)
   (5)の部分
鎌倉幕府の成立・変遷   鎌倉幕府の成立・変遷   鎌倉幕府の成立・変遷   幕府関係 後白河法皇、
源 義経に
源 頼朝の
追討を命じる
後白河法皇は、源 頼朝の強大化を恐れた。 (8)教科書P89
   17〜21行目
11月 幕府関係 源 頼朝、
守護・地頭を設置
源 頼朝は、軍勢を京都におくって法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段当り5升の兵糧米を徴収する権利(ただし、兵糧米を徴収する権利は、翌年に停止された。)、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。

こうして、東国を中心とした源 頼朝の支配権は、西国にもおよび、武家政権としての鎌倉幕府が確立した。
(9)教科書P89
   17〜22行目
   同頁脚注A
1189年 9月 幕府関係 源 頼朝、
奥州を平定
源 頼朝は、逃亡した源 義経をかくまったとして奥州藤原氏をほろぼした。

奥州平泉の豪族である藤原 秀衡の死後、子の藤原 泰衡が頼朝の要求に屈服して、源 義経を殺すと、さらに源 頼朝は、藤原 泰衡が源 義経をかくまったことを理由に、奥州に軍を進めて藤原 泰衡を打ち、陸奥国・出羽国の2国を支配下においた。
(10)教科書
   P89
  18行目〜
   P90
    4行目
および
   教科書
   P89脚注B
1190年 12月 幕府関係 源 頼朝、
右近衛大将となる
源 頼朝は、念願の上洛が実現して、右近衛大将となった。   (10)の部分
1192年 7月 幕府関係 源 頼朝、
征夷大将軍に
任ぜられる
後白河法皇の死後に、「征夷大将軍」に任ぜられた。

征夷大将軍は、本来は蝦夷を討つための臨時の将軍を意味していたが、源 頼朝が任命されて以後、しだいに武士の統率者の地位を示す官職となっていった。
 (10)の部分
および
  教科書
  P90脚注@
1199年 1月 幕府関係 源 頼朝、死去 源 頼家、家督(鎌倉幕府)を相続 (11)教科書P92
    18行目
   教科書P93
  2行目
   教科書P92
    脚注B
4月 幕府関係 2代目将軍の
源 頼家の
親裁を制限
鎌倉幕府は、源 頼朝の側近であった者、および、有力な御家人であった者の13人の合議制によって政治が行われるようになる。    (11)の部分