サンポーニャ、ケーナ奏者の瀬木貴将。
アンデスの風の楽器との出会いから、アマチュア時代、ボリビア時代、
素晴らしい先輩ミュージシャン達との出会い、
そして秘境での作曲を始めた経緯など
瀬木貴将の歴史をインタビュー形式でまとめました。



サンポーニャ、ケーナとの出会い


---サンポーニャとケーナを始めたきっかけは何ですか?

13歳の時に、あるフォルクローレのレコードを聴いたことです。最初に興味を持った楽器はギターで、中学一年生の時に学校にギターを持って行って弾いてたんだけど、僕より上手い人がたくさんいて、こりゃあ一生やっても敵わないなと早くも悟ってしまった。でも何か一つ楽器をやってみたくて、自宅にあったレコードを一枚ずつ聴いていたら、サンポーニャとケーナに出会ったというわけです。


---その時自宅にあった他のレコードはどんなものでしたか?

一番好きだったのは、ポール・モーリア。今でも大ファンだし、あのメロディーは素晴らしい。あとは映画音楽大全集みたいなアルバムがいくつもあって、60年代、70年代あたりの今で言う名画音楽にすごい興味を持っていた。実はその辺が僕の音楽の原点になっているんです。

---世界観?

うん。世界観だね。

---そんなに色んなレコードがあったのに、サンポーニャやケーナに惹かれたその魅力はなんでしょうか?

音色ですね。他に聴いたことがない音色。例えばポール・モーリアの音楽は、メロディーがチェンバロだったりピアノだったりバイオリンだったり、人間が弾いている姿が音を通じて見えてくる。でもサンポーニャやケーナは、人間が見えてくるというよりも地球そのものが呼吸しているような、地球そのものが見えてくるような気がした。すごく深いものを感じてチャレンジしたいって思った。

--- 当時、どうやってサンポーニャやケーナを手に入れたんですか?

これがまた運命的だったんだけど、当時ニュース番組を見ていたらボリビアから来たアーティストがプロモーションで演奏してた。中野サンプラザでコンサートと告知があったから見に行って、楽器店のチラシをもらったからそこに買いに行くことができた。


---おこづかいで買えるくらいの金額だったんですか?

うん。安かったです。


---調律してある楽器でしたか?

いやー、今思えば酷い楽器でした。あのクオリティーの楽器できちんとした音を鳴らせっていうのは無理だったと今は思います。


---最初のハードルが高かったんですね。

最初はケーナを買ったんだけど、音が出なくてね。3日間頑張ったけど何にも鳴らなくて、不良品だと思ってお店に返品しに行こうとしてた。家を出る前にもう一度だけ吹いてみようと思ったら、「ふっ」って鳴ったから、「ああ、音出るんだ」って。それから面白くなって続けられた。


---その酷いクオリティーの楽器のおかげで今があるんですね。

そう。実はケーナと一緒に教則本も買った。これはケーナより酷かった(笑)。でも楽器店によく通うようになって、そしたら社長さんが中学生の僕にとっても良くしてくれて、サンポーニャをプレゼントしてくれた。僕は小学校中学校の時はスポーツ少年だったけど、それから音楽にハマり、ハッピーな日々が続いています。ラッキーなことに13歳にして「これだ」という一生の何かを見つけられたわけだから。今でもこのサンポーニャとケーナは天職だと思っています。


---それからはひたすら練習の日々だったんですか?

13歳でアマチュアバンドを結成して活動していたんだけど、15歳の時に渋谷にフォルクローレ専門のライブハウスができた。そこに出演しないかと話しがあって、当時はサンポーニャやケーナをやっているプロミュージシャンもいなかったので、月曜日〜土曜日の週6日の営業なのに週4日くらい出演してた。それが僕の仕事として音楽を始めるきっかけになりましたね。


---そのライブハウスでの活動のあと、ボリビアに行くんですか?

うん。僕はボリビアのサビア・アンディーナの大ファンで、レコードも全部買って全曲コピーするくらいだったんだけど、自分の実力が現地でどのくらい通用するかな、と思っていた。それに当時はボリビアのバンドのコピーばかりやっていたんだけど、同世代のロックやポップスのミュージシャンはオリジナル曲を書いていたし、僕もこのサンポーニャとケーナを使ってオリジナル曲をやりたいなとも思っていた。そういう気持ちがずっと根底にあって、でも本場で実力を認められずにオリジナルをやってしまうと上辺だけになってしまうから、まずはボリビアに行って自分を試してみたかった。


単身ボリビアへ


---頼る宛てもなく、ボリビアに行ったんですか?

やる気だけは満々で行きましたよ(笑)。あと、アマチュア仲間の先輩達から「こういうところがあるよ」という情報をもらって参考にした。僕はまず首都のラパスで一番フォルクローレが盛んな「ペーニャ・ナイラ」を訪ねた。ここはチャランゴの名手でもあるエルネスト・カブールが経営しているライブハウスなんだけど、彼の来日コンサートには度々行ったことがあったので面識もあった。訪ねて行ったらいきなり2曲演奏していいよって言われて、演奏したらお客さんにウケて、アンコールのあとまたアンコールのダブルアンコールを頂いた。お客さんから「日本から来たなら日本の曲を」と言われて僕が演奏したのは、当時日本で流行っていたTHE ALFEEの「恋人達のペイブメント」。僕はTHE ALFEEの大ファンでね(笑)。そしたらライブのあと、ブッキングマネージャーに「明日から出ないか?」って言われて、ボリビアでの活動が始まった。

bolivia
ボリビアの首都・ラパスの街



---THE ALFEEの曲を聴いたお客さんの反応はどうだったんですか?

ウケてましたよ。だから僕が成功したのはTHE ALFEEのおかげ(笑)。


---ライブハウスやコンサートに来るボリビアのお客さんは、どんな感じですか?

やっぱりサンポーニャやケーナを誰よりもよく知っている人達だし、僕が極めたテクニックに真っ先に反応してくれる。誰にもできない技を披露したら、その場で歓声があがったり拍手してくれたりする。

bolivia
ボリビアで初ライブ



---演奏しがいがありますね。

うん。日本で演奏するのとはまた違う意味で、楽しい。


---素朴な疑問なんですが、ボリビアの人達がみんなサンポーニャやケーナを演奏したことがあるわけではないんですよね?

演奏しことない人の方が多いんじゃないかな?最近学校でも練習すると聞いたことがあるけど。

---いつ頃、憧れのサビア・アンディーナとの共演ができたんですか?

ロスエスクードスというライブハウスに出演してサビア・アンディーナの曲を演奏していたら、なんとサビア・アンディーナのメンバーが2人お客さんで来てくれていた。ライブの後それを知って、挨拶してお友達になって、そしたら「今度うちでパーティーがあるから来ないか?」って言われてずうずうしくお邪魔して、そのパーティーで一緒に演奏したのが最初の共演でしたね。彼らは丁度レコーディング中だったので、スタジオにも毎日のように見学に行っていた。エルネスト・カブールもサビア・アンディーナもそうだけど、こうやって僕を受け入れたことに本当に感謝しています。


---その頃、演奏して生活できていたんですか?

1日1ドルもしないような宿に泊まっていて、今でいう「民泊」かな?思えば怖いところだった。ライブハウスで演奏して帰ると鍵がかかっていて入れず、気温0度の公園で寝たりもしました(笑)。当時のバンド仲間のギタリストが見兼ねて「うちに来い」って言ってくれて、しばらくホームステイさせてもらえた。ソルーコさんという4人家族で、スペイン語やボリビアで生きていくための術を僕に教えてくれた。その家は貧民街にあって、ライブハウスまで歩いて片道40分。ギタリストの彼と毎日話しながら歩いて通って、辛かったけど充実してましたね。


---楽しかった?

必死でした(笑)。

bolivia
ボリビアのミュージシャン仲間



---実際にオリジナル曲の作曲をしたのはいつだったんですか?

初めて書いたのはボリビアに行く前の17歳。ボリビアでライブをやるときは、実は必ずセットリストにオリジナル曲を一曲入れてました。


---レパートリーが増えて、向こうでデビューアルバムを出したんですか?

最初渡航からリリースまでに実は4年くらいかかってるんだけど、その間に何度か日本に戻ってきていた。日本にいる間に10曲入りのデモテープを作ってサビア・アンディーナのリーダーのオスカル・カストロに送ったら、「お前、日本で何やってるんだ」って電話がかかってきた。そのデモテープを気に入って、ボリビアの大手レコード会社3社を一緒に回って行こうって言ってくれた。すぐにボリビアに行こうと決意して、現地に着いてその日の朝10時にDISCOLANDIAというレコード会社に行って、デモを聞いてもらったらすぐに契約になった。


---その結果、4枚リリースしたんですね。現地ツアーもしたんですか?

しましたね。1枚目のアルバムは、実はサンポーニャとケーナ以外は打ち込みなんですよ。80年代って打ち込み音楽が主流になっていた時代なので、僕も最先端のことをやりたかった。日本の最先端のテクノロジーを使って、ボリビアの楽器をメインに演奏する。これが僕の音楽が受け入れられた理由で、ツアーや次のリリースにも繋がったんだと思う。



UNA ZAMPONA PARA EL MUNDO(1990)

CRYSTAL(1991)


ATUN RUNA(1991)


CAMINO ADELANTE(1993)



---その頃は1ドルのホテルじゃなくて、普通に暮らせましたか?

暮らせましたね。ラパスが一望できる高層マンションに住んでました。


---4枚リリースして、日本に帰ってきたんですよね?

うん。ボリビアに行ったのは現地で認めてもらうためだし、ボリビアに骨を埋めるつもりはなかった(笑)。自分のオリジナルをやるには、当時のボリビアよりも日本の方がずっと素晴らしいミュージシャンがいっぱいいたし。フォルクローレはボリビアのミュージシャンが世界一だけど、オリジナルをやるとなったら日本の方が環境的に適しているんじゃないかって思った。


日本で活動開始!様々な出会いと国内デビュー。


---帰国後はまたゼロからスタートだったんですか?

聞いたこともないような都内の小さなライブハウスに機材を持ち込んで、打ち込みで細々と演奏していました。実は僕はアマチュアの時からスタジオミュージシャンとして仕事をさせて頂いていたんだけど、演歌の大御所アレンジャー・池多孝春先生が僕のライブを聴きにきてくれて、スタジオミュージシャンとしてやらないかって誘ってくれた。だから、僕の日本でのメジャーなデビュー仕事は演歌なんです。


---どんな演歌歌手と一緒に仕事したんですか?

吉幾三さん、小林幸子さん、神野美伽さん、森若里子さんなど多数。池多先生はもともとトロンボーン奏者ですごく間口が広い方だったので、民族楽器を取り入れてオリジナルのアレンジを作ることを精力的にされていた。


---演歌のお仕事でどんな人脈ができたんですか?

演歌ミュージシャンと言っても元々クラシックやジャズをやっている人たちで、仕事として演歌を演奏している場合が多いから、その中で僕を気に入ってくれたピアノやギター、ボーカルの方々が「一緒にやろうよ」って声をかけてくれた。今思えばすごく優秀なスタジオミュージシャンの方々に演奏して頂いていました。一番大きなきっかけになったのは、ある人の紹介で一噌幸弘さんという能管奏者と一緒になったこと。お互いに笛だし話が盛り上がって、じゃあライブをやろうってことになった。しかも当時僕がすごく憧れていた六本木ピットインで、その時サポートしてくれたのが仙波清彦さん(パーカッション)。そして、その数ヶ月後に仙波さんがプロデュースしていた渡辺香津美さんのライブがあるから、そこに出演しないか?とお話を頂いた。それからネットワークが広がって、仙波さんのハニワオールスターズに参加させて頂いたときのドラムがポンタさん。僕にとっては憧れの人で、ライブが終わってポンタさんに「実は今度ドラムを入れたバンドを結成しようと思っている」と話しをしたら、初代ドラマーに立候補すると言ってくれた。それを真に受けた22歳の僕はガキでしたね(笑)。


---皆さんすごいメンバーなんですが、緊張しませんでしたか?

緊張はもちろんなんだけど、それ以上にあのポンタさんが僕と一緒にやってくれるのだから、絶対に良い演奏するっていう気持ちの方が強かったな。実際はポンタさんの手のひらでコロコロ転がされていたんだけど(笑)。


---ものすごく勉強になったんですね。

勉強になりました。そのあとは、僕がブッキングできる会場を日本中探してブッキングして、ツアーを組んだりしました。佐山さんやベースの青木智仁さん、アコーディオンのcobaさんとも出会ったり、またギターの渡辺香津美さんとも再会して、それがリブレクラブになっていった。


---当時、皆さん30代ですよね?

そう。当時、先輩方は30代で、ミュージシャンとしてものすごく活躍していて、そのスーパープレイをセンターポジションで聴いていたのだから、それはもう鳥肌ものですよ。


---一噌さんと仲良くなれたのは、同じ民族楽器としてその面白さや不便さを共有できたからですか?

一噌さんはとても刺激的で攻撃的で実験的な人なんだけど、一つ二人で共通していたのは「その楽器の特性を失わずにオリジナルを作ること」だった。例えば、サンポーニャやケーナ、能管、篠笛でジャズのスケールをやっても面白くなし、やっぱりサックスやフルートには敵わない。僕らの楽器が面白いのはペンタトニック(5音で構成されるスケール)だったり、6音だけのスケールだったりするから、それを活かした演奏を続けて行こうと言っていました。


---リブレクラブのメンバー中心で4枚アルバムをリリースしていますよね。

94年にアルファレコードのプロデューサーから声をかけて頂いて、95年3月に記念すべき僕の日本でのデビュー作「Viento〜風の道」をリリースした。「Viento」は当時話題になっていた元ピンクのボーカリストの福岡ユタカさんが共同プロデューサーで、レコーディングにはボイスでも参加してくれて心強かったですね。


---そのあと「Ilusion」「NIEVE」「LUNA」と続くんですね。

うん。おかげさまでとても順調にソロ活動ができて、僕の名前も認識されるようになった。テレビではニュースステーションとか、フライデーとかSPA!とか当時から旬だった雑誌にも取り上げて頂いて、そこそこ話題になって有難い限りでした。でもどんなアーティストにもあるように、4枚アルバムを出すと少し行き詰りを感じるようになった。10代後半から続けてきたオリジナルが一つ完成して、今度は誰もやったことのない音楽を作りたいと思うようになった。だったら、誰も行ったことがないところに行けば良いんじゃないかと・・・。


---それでアマゾンですか!?

そういうことなんです(笑)。アマゾン川5,000キロを、音楽を作りながら一ヶ月下った。


秘境での作曲活動


---一人でですか?

ポーターを一人雇って、カヌーを買って・・・。


---買って?

レンタルなんかないですよ。返しに行けないし。買って、最後に売りました。

bolivia
アマゾンをカヌーで5,000キロ下る



---アマゾンの魅力は何ですか?

僕は世田谷生まれて基本ずっと都会で生活してきたんだけど、アマゾンは僕にとって地球の中の楽園なんですよ。地球が産まれてそのまんまの姿がまだ残っていて、人間は地球に住まわせて頂いているということを痛感させてくれる場所。アマゾンでは水を飲むのも食事をするのも大変なことで、そこにいる先住民の人たちは細々と地球に住まわせてもらっていると感じている。都会にいると全く分からないけど、そういう謙虚な気持ちになれるところが一番の魅力かな。


---アマゾンという楽園にいると、メロディーが降ってくるんですか?

よく「降ってくる」っていうけど、僕の場合は「心から湧き出てくる」かな。景色を見ながらアマゾンのエネルギーを感じると心が溢れ出てきて、それをメロディーにしている感じ。

bolivia
アマゾンの先住民

アマゾンの先住民



---アマゾンのあとはどこに行ったんですか?

ピグミーの音楽を訪ねに中央アフリカに行きました。当時一緒に演奏していたウルグアイのピアニスト、ウーゴ・ファトルーソが「瀬木の音楽はピグミーに通ずるものがある」と言っていた。そんなこと言われても全然分からないし、僕は民族音楽の楽器を使ってコンテンポラリーな世界を展開しているのに、また民族音楽の人と比べられないといけないのかって思って、今は無くなっちゃったけど六本木WAVEに行ってピグミーのCDを探して帰りのカーステレオで聴いてみたら、駐車場で車を動かさずに30分くらい聴き込んでしまった。CDに「セントラルアフリカ」って書いてあったから、これはすぐに行かなきゃと思って早速旅に出た(笑)。

bolivia
ピグミー族



---すごい行動力。ピグミーの音楽のどんなところが瀬木さんをそこまで突き動かしたんですか?

世の中の音楽の多くは「シンフォニー(メロディーに和音を付けたもの)」だけど、ピグミーの音楽は単旋律に単旋律を重ねる「ポリフォニー(複数の独立した音からなる音楽)」なので、音楽の手法が全く違う。カラーと白黒みたいなものかな?僕の楽器も単旋律だから、そこにすごく魅力を感じた。


---サンポーニャやケーナが白黒なのは一度に複数の音を鳴らせないからで、バンドになるとカラーになるということですか?

そう。ピグミーの音楽は白黒の塊で、僕の音楽で言えばサンポーニャやケーナだけがひたすら重なっているもの。要はバッハの対位法(複数の旋律をそれぞれ保ちながら調和させる技法)で、ピグミーはそんな意図もないんだろうけど、何百年も受け継いでいるのだろうね。そこに魅せられてできたアルバムが「SILENCIO」でした。そして、そのあとはパタゴニアに行くことになる。


---パタゴニアはどんなところですか?

アルゼンチン、チリにまたがる世界でも大きな『パンパ』 (スペイン語で平原という意味)です。 『風の大地』と呼ばれる南米南部の大西洋側の広大な地域で、野生動物はピューマ、グアナコなど海洋動物はゾウアザラシ、 クジラ、シャチ、ペンギン、アザラシなどの生息地です。


---氷河が有名ですよね。パタゴニアの氷河を見ながらできた作品は・・・。

「ANDES〜アンデスの風に吹かれて」です。パタゴニアで曲を書いて、ここでまたサビア・アンディーナに再会する。僕がボリビアのミュージシャンと日本でツアーをするという企画を立てたときです。


---作曲はギターですか?

いや、最初は歌。ハミングして、これっていうメロディーができたらギターでコードを付けて行く。僕は絶対音感がないので、ギターを弾いて確認していく感じかな。キーボードでもいいんだけど、ギターだったら電源いらないし。


---パタゴニアで書いた思い入れのある曲はどれですか?

パタゴニアにいる間30曲くらい書いて、そのスケッチをあとで見ていたら「Fin Del Mundo(世界の果てに)」のメロディーを3回も書いていた。そんな思い入れがあって、アルバムの1曲目に入れました。

bolivia
Fin Del Mundo(世界の果て)

パタゴニアの氷河



---何かそのメロディーにコレっていうものがあったんでしょうね。確かに1曲目がベストポジションだと思える曲です。パタゴニアの次は南部アフリカですね。

2001年に南部アフリカのナミビアに行きました。世界一人口密度が低い国で、人間より野生動物の方が多いくらい。アマゾンは僕にとって楽園だったけど、ナミビアは天国みたいなところ。そこで野生動物を見て曲を書くようになってから、また自分の新しいスタイルができました。これまで心が溢れてそれをメロディーにしていたのが、今度は野生動物の気持ちで曲を書くようになった。

bolivia
ナミビアのラグーン



---動物の目線ですか?

うん。そういう気持ちで書いてみようと思いました。それが2003年にリリースされた「大地のラグーン」で、その後2004年にリニューアルされた「サファリに行こう」なんだけど、このアルバムにはサンポーニャを8本重ねたピグミーのポリフォニックの手法を使った曲なんかをクロスオーバーさせて作りました。少し話が戻るけど、アマゾンを下っていた時にピンクのイルカが寄ってきてくれて、挨拶がわりに目を閉じて気持ちよくサンポーニャを吹いていたら、数匹だったイルカが100匹くらいになっていた。


---カヌーの周りはイルカだらけですか?

僕よりポーターがびっくりしていた。アマゾンに何十年も住んでいるけど、こんなの初めてだって。こうやって僕の演奏を通じて野生動物とコミュニケーションが取れるんだなって、感動しましたよ。


---イルカがお客さんだったんですね。きっとイルカ達も心地よかったのだと思います。

貴重な経験でした。

bolivia
ピンクのイルカ



---瀬木さんの曲は、昔の曲の方が飛んだり跳ねたりリズムが変わったりしている気がします。

若かったんじゃない(笑)?あと、僕はフォルクローレではサビア・アンディーナ、インストだとポール・モーリア、邦楽だとTHE ALFEEのファンだったんだけど、実はプログレッシブ・ロックの大ファンでもあって、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシスなんかを良く聴いていた。僕の初期のアルバムはプログレの影響を強く受けていて、それが変拍子が多い理由かもしれない。


---ロックとかクラシックとか、他のジャンルの音楽と一緒に演奏するときは、何か事前に準備や特別な練習をするんですか?

相当勉強しますよ。例えばオーケストラに入るとき、まずダイナミクスの付け方が僕らよりもずっと優れていて、例えばピッコロやオーボエがリードを取るときは他の全員が弱くなり、トランペットがリードだったら全員強くなる。こういうところをものすごく気をつけながら演奏しますね。あと、オーケストラのメンバーは必ずしもインテンポ(正確な速度)で曲に入るわけではなくて、特に弦の人たちはいつも少し遅れて入ってくるように聴こえる。僕はどちらかというと頭を揃えて入りたい方なので「どうして同時に入らないんですか?」と聞いてみたら、「メロディーが聞こえたら入るようにしている」と意図的だった。そういう「揺れ」というか、その違いが面白いし、勉強になります。


---ではその「揺れ」を練習してから参加するんですね。どうやって?

単純ですよ。メトロノームを使って前に行ったり、後ろに行ったりの繰り返し練習。基礎練習の積み重ね。


---地味な練習ですね・・・。

地味ですよ!皆さん、ミュージシャンは派手で好きなことをやっていると思っているかもしれないけど、実は人生の時間の95%は練習と地道な作曲とアレンジ活動をしているだけで、全然華やかじゃないんです。


音楽を通し、野生動物を守る。


---ナミビアを旅したあと、JTEF(トラゾウ保護基金)に参加していますよね。

野生動物を見て曲を書かせてもらっているから、何か野生動物に還元できることはないかなって思っていた。色々試行錯誤して、この地球を守るためには野生動物がいるところに出来るだけ出向いてお金を落としてくることが一番の還元なんだろうけど、もう一歩何かできることがないかと考えていたら、JTEFに出会った。JTEFは小さなボランティア団体だけど、とてもピュアな気持ちで活動しているし、ここだったら何か一緒にできるかな、と。


---ここ何年かは募金箱でも協力していますね。

僕のコンサートで募金を募るのも、コンサートの主催者の許可や協力が必要だから、毎回直接説明して設置をお願いしています。


---JTEFを通して知ったことや、瀬木さんの音楽に影響を与えたことはありますか?

実は日本が象牙の世界一の輸入大国だということ。象牙のために象は違法に殺されているからね。ショックだった。音楽については、JTEFは僕の音楽を通じて皆さんから募金を頂いているから、僕は責任持ってこれからも音楽活動をブレずに続けて行きたいな、と思っています。

bolivia南部アフリカ・エトーシャ国立公園

南部アフリカ・クルーガー国立公園



楽器へのこだわりと、思い出に残る共演。


---自作の楽器はいつから作っているのですか?

13歳から。


---最初から?納得のいく楽器ができるまで、どのくらい時間がかかったんですか?

僕の場合は、そもそも日本でサンポーニャやケーナを始めた時点で演奏面でも楽器面でもハンディがあるから、本来ちゃんと勉強していれば3ヶ月でできたことを2年かけちゃったんですよね。まずリズムの勉強が必要だったし、吹き方も分からない。楽器作りにしても良い材料がなかったから、いわゆる民芸品店に売っているサンポーニャを沢山買って、良い管だけ集めて作り直したりしていた。だから、初めてボリビアに行ったときは大量に材料を買い込んできました。

bolivia
厳選されたサンポーニャの材料



---納得のいく楽器ができるまで、少なくとも数年かかったんですね。管はどうやって選ぶんですか?

当時は吹いて分かる。今は見て分かる。


---瀬木さんのそういう積み重ねが、瀬木貴将モデルのサンポーニャやケーナに活かされているのですか?

かなり活かされてますね。向こうの楽器製作者のアトリエには何十回何百回と通って楽器談義をして、一緒に作って学んできたし。向こうの楽器製作者と良い楽器を作るにはどうしたら良いかとディスカッションしたことがあるんだけど、彼らの回答は「作っている本人が良い演奏家であること」だった。僕の場合はプロとしてのチューニングや安定した音色が要求されるので、それを極めることはできたつもりです。


---瀬木さんがこれまで共演した中で、一番印象に残っている人はどなたですか?

参加させて頂いた中で一番メジャーなのはポルノグラフィティのアゲハ蝶だと思うんだけど、あれは実はサンポーニャとケーナだけで7チャンネル使っているんですね。とても早いパッセージで、演奏するのはとても困難な曲でした。スタジオミュージシャンはスタジオに入って初めて資料を渡されて、2時間でレコーディングを終えないとクビになってしまうので、ものすごく頑張ったからよく覚えてます。


---初見で2時間でできたんですか?

ちょうど2時間。何回も録り直しました。あと、呼んでもらってすごく嬉しかったのは、渡辺香津美さんのクリスマスアルバム。コンソールルームに香津美さんがいて、そこから「ああしよう、こうしよう」って声が聞こえて来るたびに震えてましたね。嬉しさと、緊張と、あとちょっと怖さと(笑)。まだ24歳くらいだった。


---THE ALFEEの「夢のチカラ’06」にも参加しましたね。

そう、依頼をいただいたとき僕はボリビアにいて、ボリビアのスタジオで録音したものを日本に送ったんです。当時、スタジオのインターネットがすごく遅くて、スタジオより早いカフェに籠っても8時間くらいかかって音源を送信しました。ボリビアの空気の中で演奏したから、そんなところも感じながら聴いて頂けたら嬉しいです。あと、ペドロ・アスナールかな。パット・メセニー・グループのペドロ・アスナールをリブレクラブのツアーに招聘したのが最初の出会いで、それから交流が始まり、ペドロ作詞、僕が作曲の「ORACION」をレコーディングして僕のアルバム「大地のラグーン」に収録したんだけど、ペドロがそれをすごく気に入ってくれて、自分のアルバムにも入れたいと言ってきたので二つ返事でOKしました。なんと1曲目に入れてくれて、そのさらに数年後にリリースされた彼のベスト盤にも1曲目に入っていて、とても光栄なことだし嬉しかったな。

今後の活動


---今後やってみたいことはありますか?

30年以上かけてサンポーニャとケーナのオリジナリティー溢れる音楽を作ってきたつもりだけど、まだまだできる可能性が沢山あると思うので、常にチャレンジ、そして攻撃的に仕掛けて行きたい。今までの自分の音楽は旅をしながら一つのこだわりを持って、例えばアマゾンならアマゾン、パタゴニアならパタゴニアをテーマにアルバムを作ってきたけど、これからはそういう枠に囚われず、一つのサンポーニャやケーナワールドのパフォーマンスとしてもっと大きな音楽を作って行ければと思います。サンポーニャとケーナの音楽は「これだ」ということを突き詰めて、特にライブではエンターテイメント性も持たせて緊張感と感動に溢れるパフォーマンスをできるようにしていくつもりです。


bolivia
ボリビア・ウユニ塩湖






Page Top