<落合寅市>



乙副隊長 1851〜1936 35才 重懲役10年
寅市の墓「廊翁壽栄信士」


 坂本宗作、高岸善吉と共に「困民党トリオ」と称され、事件の最重要人物の一人です。加藤織平の舎弟でもあった彼は、事件前年から負債農民を救うべく、郡役所に対して、高利貸し説諭の請願運動を合法的に繰り返しました。それと共に山林集会を開いて賛同者を集め、秩父困民党を組織していきました。
 困民党蜂起の際は、中山道へ進出しようと粥新田峠を越えたところで11月5日、憲兵隊、警察隊と遭遇し、銃撃戦の後敗走しました。各地を転々とした後、板垣退助を頼って四国へ逃れ、大阪事件に加わって逮捕されます。
 1889年、憲法発布の恩赦で出獄した後は、救世軍で活躍しながら、加藤織平親分の墓を作るなど、事件の顕彰に努めました。


 寅市が事件後秩父を逃れて四国の板垣退助のところまで行き、大阪事件に加わった話の詳しい様子は、春田国男著「寅市走る」有朋舎版に載っていますが、残念ながらこの本は現在廃版となり手に入れることができません。私は知人から借りて読むことができましたが、なんとか自分でも手に入れたいと思っています。

 1995年にフィールドワークをしていて、偶然に寅市のお孫さんの正十四(まさとし:2003年没)氏にお会いすることができ、正十四氏が一緒に暮らした寅市のお話をしていただきました。「ただのじいさんさ」と言いながらも、寅市の心を知ることのできる貴重な話をうかがいました。以下、正十四氏の話から。


 寅市は憲法発布の恩赦で出獄後、救世軍の仕事をし、寄付をよく集めて表彰された。いつも救世軍の帽子を得意そうにかぶってでかけていた。
 酒が大好きだったが、体によくないことを知りいっさい飲まなくなった。人にもそのことを勧めるようになった。
 困民党の仲間のことを気遣い、特に織平親分の墓作りに耕地の人たちと力を入れた。完成の日には耕地の人々が集まったが、地区担当の警官が一人やってきて、死刑囚の墓を作るなどもっての外とやめさせようとした。村人の勢いが強くてやめさせられないので、せめて墓に書かれた「志士」という文字を横向きにしろと迫った。しかし、寅市は墓を訪れる人に申し訳が立たないとがんばって押し通してしまった。
 大正十四年の第1回普通選挙の日、寅市は朝早くから支度をして投票に出かけて、正十四氏が起きて着替えをしている時に帰ってきた。「自分は生き残ったので投票することができた。いい時代になった」と死刑になった人のことを思い涙を流した。
 横浜にいた四男九二緒氏の奥さんがとてもいい人で、晩年はとてもよく世話をしてもらった。