<田代栄助>
代言人をしていた栄助は、「強きをくじき、弱きを助けるを好む」(尋問書から)と自ら述べるとおり、自宅には負債などで家を追われ困窮している人々を幾人も住まわせていたそうです。そのため、人望も厚く、子分といえる者が200名以上いたと述べています。
蜂起の際は、持病に苦しみ、胸痛をこらえながら困民党総理として先頭に立ちました。
4日困民党本部解体後、幾人かの幹部と軍資金を分けて逃走しますが、他のリーダーたちと違って遠くへは逃げず、秩父市を取り囲んだ山々を、市内を見下ろすような経路で逃走しています。途中、八番峠で密かに次男保太郎と会い別れを告げ、14日、黒谷村の知人宅で寝ているところを下働きの老女に密告されて捕まりました。
困民党総理として命を投げ出した栄助は、捕まって死罪になる覚悟はできていたものの、秩父の町をほぼ一周して捕まりました。山の上からどのような気持ちで、自分が生まれ育った町を見ていたのでしょうか。
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辞世の句
「振り返り見れば 昨日の影もなし 行き先くらし 死出の山道」
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