<井上伝蔵>




困民党会計長 1854〜1918 30才 死刑(欠席裁判)
伝蔵の手配書

一、年齢三十二三
一、顔長く白き方
一、男振は美なる方
一、丈高き方
一、歯並揃ひたる方
一、鼻高き方
井上家跡(下吉田 井上耕地)

濁りなき御代にはあれど今年より
     八年之後はいとゞ寿むべし



 伝蔵作のこの和歌は、国会開設を期待した詩と思われている。

 困民軍会計長を務めた伝蔵は、丸井商店という大きな商店を経営し、連村副議長を務めるなどして、地元では人望のある人物でした。自由党員として開けた思想を持つ一方、俳句や歌舞伎などにも通じていました。
 いずれは村長や県会議員にもなれるという立場だったのですが、困窮する農民たちのために一命を投げ打って立ち上がりました。
 落合寅市、高岸善作、坂本宗作ら困民トリオが農民を組織しながら合法活動を展開するに当たり、バックでその頭脳として活躍していたようです。
復元された丸井商店(道の駅「龍勢会館」)
映画にもなる数奇な生涯
移転され吉田町に残る、伝蔵がかくまわれていた蔵
 困民軍解体後、田代栄助らと別れた伝蔵は、同じ下吉田村の知人を訪ね、その家の土蔵にかくまわれる。そんな中、弟の筴作が逮捕され、拷問を受けるが伝蔵のことは口を割らなかった。残された伝蔵の妻(古ま)は、捜査の手が回らないようにと、伝蔵の生死も知らされず、伝蔵唯一の幼子を抱いて、実家へと帰される。(実家のある東京へ戻った古まについては、伝蔵の甥に当たる井上宅治が面倒をみるように言われていたらしい)

 2年間の潜伏中、村人たちは伝蔵の居場所を知っていたようだが、誰一人官憲に密告する者はなかった。それどころか伝蔵の名は神のように崇められ、厄災退散のお札に、その名が使われたりもした。

 2年後の1886年、伝蔵は故郷を離れて北へと向かい、翌年北海道へ渡った。名を伊藤房次郎と変えて、石狩郡樽川村に開拓農民として潜伏する。
 伝蔵は新しい妻(高浜ミキ)をめとって子どももでき、小間物・文具の店を始める。俳号「柳蛙」と名乗り、俳諧でも活躍をする。だが、自分が秩父事件の巨魁であることは、家族にも秘密にしていた。

 1918年、腎臓を悪くした伝蔵はいよいよ自分の最期を悟ると、妻と長男に自分の本当の素性を知らせ、その後十日ほどで息を引き取った。



伝蔵、臨終の床


 実際に、その数奇な生涯は映画になり、今年の秋上映される予定。

草の乱

 自分の名を変え、新たな人生を北海道で送った伝蔵は、どのような気持ちで日々を過ごしていたのでしょうか。事件の首魁が極刑を受ける中、自分だけが生き延びたことに対する悔恨でしょうか。それとも、少しでも生き延びて、博徒の暴動と誹謗された事件の、真の姿を後世に伝えようとしたのでしょうか。
 どうやら伝蔵の本心は後者のようでした。潜伏中も政治には関心を示し、立ち会い演説会ではヤジを飛ばして警官に咎められたこともあるそうです。真相をうち明けた時、長男には事件の「鑑定」を頼んでいます。この長男の話を元に、釧路新聞は「秩父颪」として、伝蔵の生涯を連載しました。伝蔵は、自分が生き延びることで、志を果たせずに刑場の露と消えていった仲間たちの、無念を晴らそうとしたのでしょう。
伝蔵の墓(覚翁良心居士)


 2004年1月に、秩父事件研究顕彰協議会の東京勉強会で、伝蔵の北海道での奥さん、高浜ミキさんのお孫さんからお話をうかがう機会がありました。伝蔵のお孫さんらしく、面長の整った顔をされた方でした。
 伝蔵の死後、秩父の井上家と北海道の伊藤家はつながりを持ち、親しくつきあっていたそうです。
残念ながら伝蔵と直接お会いはしていないのですが、伝蔵の長男(洋:ひろむ)から聞いた話など聞かせて頂きました。

 伝蔵はまじめな人で、座るときはいつも正座しかしませんでした。冗談を言うような人でもなかったそうですが、子どもたちはしかられたことがなかったそうです。

 斉藤家の蔵にかくまわれていた伝蔵は、蔵の中で隠遁生活をしていたのではなく、たびたび実家を訪ね、食事などをしていたそうです。人望が厚く、近所の人々に出会うこともありましたが、誰一人密告する者はありませんでした。

 北海道へ渡った伝蔵は、高浜家から土地を借りたりして開墾しましたが、潜伏生活のために戸籍が無く、土地を自分のものにすることが出来ませんでした。すべて自分が開墾した土地も高浜名義にしていました。そのため高浜家から認められ、二回りも歳の違うミキさんと結婚したのもそのためかもしれません。
 結婚しても戸籍がないために入籍させることが出来ず、ミキさんは高浜姓のままでした。伝蔵の死後すぐに入籍したそうです。戸籍が無いにも関わらず娘を嫁がせたミキさんの父親は、それだけ伝蔵を気に入ったものと思われます。

 文具店をしていた時の話です。学校の教科書を売る時には赤飯を炊き、教科書を買いに来た人にお祝いとして渡していました。貧しい家が多く、代金を払えない人には、支払いは後でいいと言っていたそうです。そのような正義感、義侠心は子孫の方にも受け継がれたようで、長男の洋さんは台湾からの留学生の面倒を見てやり、台湾人と言うことで断る学校を説き伏せて、入学させてやりました。

 上の最後の写真は、ミキさんが写真屋を呼んで撮らせたそうです。潜伏生活のため、伝蔵は一度も写真を撮らせたことが無く、この一枚しかないとのことです。

 お孫さんが子どもの時、洋さんから言われたことです。
「自分は体が弱いから、おまえが大きくなったら武甲山に行ってみなさい。伝蔵が隠した刀や軍資金が出てくるはずだ。」
 武甲山はセメントをとるために、今は惨めな姿になっています。いつか、どこかの洞穴で、それらのものがみつかるかもしれません。